第8話
田舎に来て9日目の朝、牛舎で仔牛に牛乳をあげていたら、おばあちゃんがやって来て、
「草太、今、お父さんから電話があって、妹が生まれたんだって。お母さんも妹も元気だよって、連絡があったよ」
と、言った。僕は、そんな事忘れていた。そうか、できればリキみたいな弟がよかったけれど、妹も悪くない。僕は、おじいちゃんの家からお父さんの携帯電話に電話をした。隣にはお母さんもいたみたいで、お母さんとも話をした。お父さんが「あと一週間くらいしたら迎えに行くから」と言った時、一瞬で現実に戻った気がした。そうだ、僕はずっとここにいる事はできないんだ。あと一週間で家に帰らなくてはいけないんだ。リキはこれからどうなるんだろう・・・。
僕達が「人隠しの穴」でキャンプ生活をしている事を、おじいちゃんもおばあちゃんも、特に何も言わなかった。ご飯やお風呂や搾乳の時は戻っていたし、それに、僕がいない間、おじいちゃんは随分ゲームが上手くなっていた。
でも、大ばあちゃんは何かを知っているみたいだった。大ばあちゃんは時々、「人隠しの穴」の横の鳥居に花を生けにくる。
その日も、突然やって来た。ちょうど僕とリキはくすぐりっこに夢中になっていて、サキちゃんと高杉先生は、パソコンや本を見ながら何かを調べていた時だった。誰も、大ばあちゃんが来た事に気がつかなかったから、突然「どこから来た?」と言う声がした時、みんなの動きが一瞬止まってしまった。
大ばあちゃんは、リキを見てもそんなに驚いた様子はなく、冷静だった。高杉先生が、
「ああ、こんにちは。あの・・・これはゴリラでして、でも、子供なので危険ではありません。大丈夫です。たぶん、あの・・・この穴の向うから来たと思われます」
と、言った。
「ばあちゃん、他の人に余計な事を言わないで。大丈夫だから。ね?」
と、サキちゃんも言った。
大ばあちゃんは、僕らの方に寄って来て、リキを見た。
「昔も、同じようなものが来たよ、この穴の向うから。それは、もっと大きかった。そして、怪我をしていた。じいちゃんが見つけて、手当てして、しばらくしたら穴の向うに帰って行ったよ。いいかい、穴の向うの世界から来たものは、穴へ帰るのが決まりだ。それが、自然と言うものだよ。こっちの世界の生き物が、むやみにその決まりを乱したら、そのうちに罰があたる」
大ばあちゃんは、そう言って、花を生け換えて、家の方に向かって歩いて行った。サキちゃんが「人隠しの穴」を見つめながら、呟いた。
「穴の向うの世界から来たものは、穴へ帰るのが決まり、か・・・」
その夜、牛の分娩が始まった。なかなか仔牛が生まれてこないらしく、サキちゃんや、高杉先生や、おじいちゃんや、ヘルパーの人たちが心配そうに様子を伺っていた。暗い夜の世界に煌煌とひかる牛舎の明かりは、これから生まれる命の輝きみたいだ。
10時近くになって、やっと前足がでて来た。そして鼻先と舌が見えた。皆は「早く引っ張れ」と言って、高杉先生とおじいちゃんが、仔牛の足をひっぱったら、水みたいなものと一緒に、スルっと仔牛が出てきた。そして、仔牛のぬれた小さな体を、お母さん牛が舐めていた。仔牛は、直ぐに自分の足で立とうと努力していた。立ち上がろうとしては転び、また立ち上がろうとする。その瞬間を、人間が手伝ってはいけないから「頑張れ!もう少し」と、僕は声を出して応援した。そして、仔牛は自分の力で立ち、誰にも教えられていないのに、おっぱいを飲んだんだ。
僕は命が誕生する瞬間を初めて見た。僕の妹も、僕も、リキも、命を持っているものはみんな、こんなふうにして生まれて来たのだろうか。命って、なんて力強いんだろう。
その時、ヘルパーの人の叫び声がした。
「わっ、サルだー!」
僕と、サキちゃんと、高杉先生はハッとして外に出た。リキが、外から牛舎の様子を伺っていたんだ。サルと見間違われたから良かったけれど、僕とサキちゃんは人目につかないように急いでリキを、「人隠しの穴」まで連れていった。しばらくしてから高杉先生も来て、これからリキをどうしたらいいのか話し合った。実際、最近のリキは、怪我も体力も回復し、好奇心が旺盛になって、行動範囲も広まり、誰かが監視していないと、何処かに行ってしまう事が多かった。
「やっぱり、ばあちゃんが言っていたように、穴へ返すべきなんだろうか」
サキちゃんが言った。
「返すって、どうやって返すの? 穴の向うに何があるのか、わからないのに、そんな事しても大丈夫なの?」
僕は不安な気持ちになった。
高杉先生が、
「知り合いの動物園に、相談してみようか?」
と、言った。
「そうだね、ずっとここで隠れて暮らしていく事は、できないものね。そのうち村の人にも見つかってしまうだろうし」
「リキはどうしたいんだろう・・・」
僕はリキの方をみたけれど、リキは無関心な様子で、タロウとじゃれあっていた。
次の朝、僕は何だか体が重くて頭が痛かった。サキちゃんが僕の顔を見て、おでこに手を当てた。
「熱っぽいね。夏風邪みたいだから、家に戻ってちゃんと布団で休んだほうがいいね」
「大丈夫だよ。僕はここで寝る」
と言ったけれど、高杉先生が、
「いや、家に帰ってきちんと布団で寝たほうがいい。リキの事は僕達にまかせなさい」
と言い、僕はおじいちゃんの家に連れていかれ、居間の隣の部屋に布団を敷いてもらって横になった。高杉先生にもらった薬を飲んだら眠くなってしまい、気が付いたら午後の二時だった。
おばあちゃんが、お粥を運んできてくれた。
「調子はどう? 明日は村祭りがあるんだよ。だから、今日一日ゆっくり寝ていなさい。あとで、アイスクリームを持ってきてあげるからね」
お祭りか・・・。行きたいなあ。今ごろリキは何をしているんだろう。リキと一緒にお祭りに行けたら、きっと楽しいだろうなあ。
お粥を食べた後薬を飲んで、僕はまた眠ってしまった。このまま目が覚めないのではないかと思うくらい、たくさん眠った。次に目が覚めた時はもう夕方で、部屋は、夕焼けに染まってオレンジ色になっていた。そのオレンジの部屋に、バナナが一本、コロンと置いてあった。縁側に続く障子を開けておいたから、そこから誰かが置いたんだろう。何故か、リキの顔が浮かんだ。
夜になって、お母さんから電話がかかってきた。
「草太、風邪ひいたんだって? 大丈夫?」
「うん。高杉先生にもらった薬を飲んで、一日中寝ていたら頭が痛いのは治ったよ」
「高杉先生って、高杉君の事? ちょっと、ちゃんと人間の薬を貰ったんだよね!?」
「あたりまえだよ」
「そうよね、よかった。ああ、赤ちゃんの名前決まったのよ。風香っていう名前にしたの。風の香って書くんだよ。皆にも言っておいてね」
電話を切った後、おばあちゃんに妹の名前を報告して、アイスクリームを食べた。そして、また寝た。
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