第5話

 翌朝、飼育ケースをのぞいたら、クワガタの姿が見えなかった。一瞬、逃げちゃったのかと思ってあせったけれど、土の中で眠っている事がわかり安心し、蜜を足してフタを閉めた。

 今日は、午前中に獣医さんがくるんだ。もうすぐ赤ちゃんを産む牛の様子を診る為に。

 獣医さんは、自分で車を運転しながらやってきた。ティーシャツにジーパンという姿で、ぜんぜん獣医さんぽくなくて、サッカースクールのコーチみたいだった。でも、車から降りて、スニーカーから長靴に履き替え、大きな白いビニールのエプロンをしながら牛舎に入って来て、バックから、いろいろな器具を取り出し、牛の様子を診ている姿は、獣医さんらしくてかっこいいなあと思った。

 獣医さんの隣にはサキちゃんがいて、助手みたいに手伝っていた。サキちゃんは、獣医さんの事を「高杉先輩」って言っていた。おじいちゃんは、「三代目先生」って言っていた。それから、獣医さんは僕を見て「へえ、マキちゃんとこの草太君? 大きくなったねえ」と言った。田舎は、みんなが知り合いで、親戚みたいだ。

 お昼ご飯を食べた後、僕はタロウと一緒に森へ行った。昨日蜜を塗った所に、何かいないか確かめたかったから。でも、昼間だからなのか、何もいなかった。それで僕は、蜜を塗り足し、他の木にも何かいないか注意しながら歩いた。すると、タロウが突然走り出した。ワンワン吠えながら何処かへ行ってしまいそうだった。僕は、置いていかれないように、「待ってよー、タロウ!!」と叫びながらついていった。

 タロウが走り止まった所は、「人隠しの穴」の前だった。タロウは穴の前で、ヴルルルーヴルルルーと低い唸り声をあげていた。僕はドキッとした。心臓が止まりそうだった。だって、そこには、子供が倒れていたんだ。真っ黒い毛むくじゃらな子供が・・・。

 タロウが、唸りながら近づいたり、戻ったりしていると、その子はかすかにピクッと動いた。僕は、もっと近づいてみた。そしたら・・・それは・・・ゴリラだった。本物のゴリラの子供を見た事がなかったけれど、テレビで見たゴリラの子供に、そっくりだった。

 僕は、どうしたらいいのかわからなくて、タロウに「ゴリラを見ていて」と頼んで、サキちゃんを呼びに、おじいちゃんの家へ向かって走った

 森の中を抜け、小川の橋を渡って、畑を突っ切って、縁側からサキちゃんの部屋に駆け寄って行った。僕の背中は汗でびっしょりだったし、頭も顔も熱くなっていた。

「サキちゃん!」

「どうしたの? 顔が真っ赤だよ」

「大変なんだ! 森の中にゴリラがいるんだよ! そいつ、怪我をしているみたいなんだ!」

 もちろん、サキちゃんは信じなかった。

「またまた~、騙そうとしているでしょう? サルくらいなら信じるけど、ゴリラじゃ、まるっきりウソっぽいよ~」

「信じてくれなかったら、これ抜いちゃうから!」

 僕は半ベソ状態で、パソコンのコードを持った。

「わー、待って! 待って! わかったから。今、行くから」

 サキちゃんはデーターを保存して、パソコンの終了ボタンをクリックした。それから僕は、「人隠しの穴」まで走って戻った。サキちゃんも後からついてきた。

 サキちゃんは「人隠しの穴」の入口を見た時、「うそ・・・なんで・・・・」と呟きながら僕を追い越し、「草太はここで待っていて」と言いながら、ゆっくりとゴリラに近づいて行った。

「大丈夫、何もしないよ・・・。いい子だね」

 サキちゃんは、小さな優しい声でささやきながら、ゆっくりゆっくりゴリラに触れた。ゴリラは少しだけ「ヴゥー」と唸ったけれど、もう抵抗する気力も体力もなかったみたいで、それっきりだまってサキちゃんを見つめていた。サキちゃんは、ゆっくりと優しくゴリラの体の傷を調べた。

「草太、小川から水を汲んで来て」

 サキちゃんが、僕を見ながら言った。僕は「うん」って言ったけれど、入れ物なんて持っていなかった。辺りを見回すと、鳥居の前に、花を入れているビンが置いてあった。僕は、鳥居に向かって「これ、貸してください」って言ってから、花を取り出してビンを持って小川へ向った。

 小川の水は冷たくて奇麗だ。魚や小さな虫や葉っぱが入らないように注意しながら水を汲んで、サキちゃんの所へ戻った。

 ビンを渡す時、初めて近くでゴリラを見た。腕に大きな傷があって、べっとりと血が付いていた。身体には、スリキズがいくつもあり、目はうつろで、疲れた感じがして、とても弱々しかった。今にも死んでしまいそうに見えた。

 サキちゃんは、ゴリラの体を起こし、背中を優しく抱きかかえながら、指を使ってゴリラの口の辺りに水を付けた。そうしたら、ゴリラは少し口を開け、もっと欲しそうにしたので、サキちゃんは水入れを口の所まで持っていき、少しずつ飲ませた。ゴリラは、ゴク、ゴク、ゴク、と音をたてて水を飲んだ。僕とサキちゃんは、顔を見合わせホッとした。

「草太、何か食べ物持ってない?」

 僕は、リュックの中にサキちゃんが作ってくれた蜜が入っているのを思い出し、サキちゃんに渡した。サキちゃんは、蜜を左の手の平にのせ、右の指先でゴリラの口に少し付けた。ゴリラは、舌で口の周りを舐めた。そして、サキちゃんの手の平も舐めた。「くすぐったーい」と、サキちゃんは言った。

 サキちゃんが、僕の手の平にも蜜を乗せた。そしたら、ゴリラは僕の手の平もぺロって舐めた。ビンに入った蜜はすぐに空になってしまった。

 サキちゃんは、しばらく、ゴリラの背中をさすりながら、何かを考えていた。

「傷の手当てに必要な物を取りに行くから、草太も一緒に来て。ここは、タロウに守っていてもらおう」

 僕たちは、その辺に生えている草を集めてゴリラをゆっくり寝かせ、牛舎に向かって走った。

「あのゴリラ、何処から来たんだろう?」

「動物園から逃げて来たのか、人に飼われていた物が逃げたか、捨てられたか・・・。でも、足跡をみると、穴の奥から来たみたいだね」

「何歳くらい?」

「たぶん、3歳か4歳くらい」

 牛舎は、夕方の搾乳前の休憩時間だったので、誰もいなかった。サキちゃんは、一輪車に藁と牧草を乗せ、それから消毒薬や脱脂綿やガーゼを準備した。僕は、サキちゃんに言われたとおり、家の台所へ行き、バナナやパンなど、直ぐに食べる事ができそうな物と、畑に実っている野菜を取り、それをバケツに入れ、また森へ向かった。

タロウは、ゴリラの横で背筋を伸ばし、凜々しい姿でじっと座っていた。サキちゃんは、タロウの頭を撫でながら「サンキュー、タロウ」と言った。そして、人隠しの穴の中に藁を敷き、その上にゴリラを移動させた。僕が足を持って、サキちゃんが体の方をもって動かしたけど、結構重かった。そしてサキちゃんは、獣医さんみたいにビニールの手袋をしながら、脱脂綿やガーゼに消毒液を付けて怪我の手当てをした。

 僕は、ゴリラに何とか食べ物を食べさせようとしたけれども、なかなか食べてくれない。ゴリラって何が好きなんだろう? 普段は、何を食べているんだろう。それにしても、このゴリラは何処からやって来たんだろう。僕は穴の奥の方を見た。そこには、ゴリラが必死に体をひきずって歩いて来たような足跡が残されていた。

「草太、バナナを食べてみて。そしたらこの子も、真似をして食べるかもよ」

 僕はゴリラの前でバナナの皮をむき、口に運んだ。ゴリラは目を丸くして見ていた。わざと口をモグモグさせながら食べてみた。そしたら、ゴリラも口をモグモグさせた。僕は二本目のバナナの皮をむいて、ゴリラの口の前に差し出した。そしたら、ゴリラは鼻をピクピクさせながらバナナの匂いをかいで、唇に付け、そして口をちょっぴり動かした。そのうちモグモグ、モグモグって、食べはじめた。もう一本、皮をむいて口の前に差し出したら、今度は自分の手でバナナを持って食べた。それから、キュウリと食パンも同じように、僕が食べるのを真似して口へ運んだ。

 サキちゃんは、ゴリラの右腕に包帯を巻きながら、

「腕の傷は少し深いから後が残るかもしれないけれど、他のは、かすり傷だから、すぐに治るよ。後は、体力と精神的な問題だね」

 と、言った。

「体力と、精神的な問題って、どう言う事?」

「草太、ゴリラって見たことある?」

「うん、テレビや図鑑や動物園で。でも、本物の子供のゴリラは初めて見た」

「ゴリラって、強くて、乱暴で、怪力っていうイメージがあるけれど、本当はね、とっても神経質で優しい生き物なんだよ。悲しい事とか、怖い思いをして、ショックで食欲がなくなって、下痢が続いて死んじゃう事も多いんだ。この子も、体の傷は浅いけれども、心の傷がどのくらい深いかわからないから、しばらく様子を見ていてあげないといけない状態なんだ」

 ゴリラは、僕達が危害を加えない味方だとわかったのか、安心した様子で、藁の上にゴロンと横になった。

「サキちゃん、この子に名前を付けようよ。いつまでもゴリラじゃ、かわいそうだよ」

「そうだね。何ていう名前がいいかなあ」

「このゴリラは、オス? メス?」

「オスみたいだよ」

「じゃあ、強そうで、かっこいい名前がいいね」

 僕はいろいろ考えた。ゴリオ。ゴリタロウ。ゴリゴリ。

ゴリラを見つめながらサキちゃんが、言った。

「草太、チカラって漢字知ってる? あれって、リキとも読むんだよ。そこから意味をかりて、リキっていうのはどう?」

 リキかあ。悪くないなあ。チカラっていう意味もこもっているし。それで、ゴリラの事をリキって呼ぶ事にした。

 藁の上で横になっていたリキは、起き上がって、しばらくサキちゃんにしがみついていた。そしてそのまま目をつむっていた。

 僕は、リキの背中をさすりながら、なんだかちょっと途方にくれた思いだった。サキちゃんも黙って何かを考えているみたいだった。人隠しの穴の中からは涼しい風がふき、空を見上げると木々の間から真っ青な夏の空が見えた。

 しばらくして、サキちゃんが腕時計に目をやり「そろそろ搾乳の時間だ」と言い、リキを藁の上におろした。僕たちは、残りのバナナや食べ物をリキの手が届く所に置き、森を後にした。

 タロウは、リキの横を離れようとしなかったので、そのまま守ってもらう事にした。

 

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