第1話

地下室の空気は、今日もカビとインクの匂いが充満していた。

部屋の住人であるレオンは深呼吸する。


「スー……ハーーー。……ふーぃ、目が覚める。素晴らしい香りだ」


しかしこの芳醇な香りも、本など1冊も家にないこの時代では理解されない。

そんな時代に、レオン・クラヴィスは「知紡ぎ(ちつむぎ)」としてのキャリアをこの地下で30年続けてきた。


机に向かい、黙々とペンを走らせる。

ガリガリ、ペラリ。ポタ。ガリガリ、ペラリ。ポタ。

古書を翻訳し、曖昧な部分は具体、理由、対比を加える。可能なら理論化する。

それが知紡ぎの仕事だ。生まれ持った才能で序列が決まるこの世の中に、別の可能性をもたらす革新的な活動、レオンはそう信じている。


だが――


「インクまみれオジ」

「知スベリ」

「時代周回遅れ」

周りからの評判は散々だった。


レオンはそれらを豪快に笑い飛ばす。

「周回遅れ? わっはっは、そりゃ随分と遅れてるな!」


彼は気にしない。

30年も続けてきたのだ。

流行りより、こだわりだった。


――――――――

―――――

――…


現在取り組んでいる古書に目を向けた。

5万冊の古書の完遂まで、残りあと1冊。30年の執筆活動の締めくくりだ。


古書の内容を一言で表すと『魔法発生の過程に工夫を加えること』。

呪文を唱え魔法が出る、その一つ一つのプロセスに変化を加えるものであった。

古書はその試行錯誤の記録の束。そして魔力の低い者たちの抵抗の歴史でもあった。

才能が直結する魔力の差をどうにかして埋めようとする、先人たちの足掻き――


しかしこの最後の1冊は、他の古書と毛色が違った。

昨今の、魔力に物を言わせた「ピカッ、ドーーン!」を賞賛する、そんな内容。

先達の葛藤も、執念も、輝きも、そこには何も感じられなかった。


特に学びのない本――30年を締めくくるには多少味気無いが、まあ仕方がない。

そう片付けて本を閉じてもよかった。

しかし、本文の最後に登場する文字式。レオンにはこれが妙に気になった。

「……ふう、どう読み解くんだ、この術式……」


式の中でかろうじて『変化』を意味する部分は読み取れる。

あとは見たこともない文字だ。当然読み上げることもできない。

本書で『変化』を論じているわけでもない。これまでの内容と最後の文字式に一致が見られないのだ。


ただの気まぐれのデタラメ――には思えなかった。

式を指でなぞる。すると重厚で大きな扉のイメージが浮かぶのだ。

微弱だが、この文字式に魔法が込められている。

扉の先が気になって、レオンは今日も首をひねり続けるのであった。


「他の古書にも参照部分がないとなると……うーーむ、情報が足りん……」

ここ数週間は何も進んでいなかった。


「……あーーー、何なんだコレーーー!!」

駄々っ子のように叫ぶレオン。

しかしそんな時にこそ、レオンの心は弾んでいた。


理解したい。知識から生まれる何かが見たい。


それは没頭している人間の顔だった。


――――――――

―――――

――…


気分転換と食事を兼ねて、階段を上って地上に出た。

しばらく歩くと周囲からヒソヒソと声が聞こえてくる。

3人の女生徒だ。


「……まだ知スベリやってんだ?」

「誰も本とか読まないのにね」

古典ウゼー、キャハハ、と2人から笑い声が聞こえる。


一方で、もう1人の赤髪の生徒は静かにレオンを見据えていた。

「……古書ね」


レオンのいる地下室は魔法学校の端の端に位置していたが、学生は敷地内の至る所にいた。

陰口を叩かれてもレオンが学校から離れないのは、5万冊の古書を学校が所有していたからだ。


「イケオジっぷりは目の保養だけどなぁ」

「でもあの人、魔力測定のとき数値ゼロだったらしいよ。お母さんが言ってた」

「ええ、ゼロ!?」

「モンスター以下って……もう動物やん!」


親と子ほどに歳の離れている学生たちの嘲り。

レオンの口からも、つい笑みが漏れた。

「……動物か……上手いことを言う……」


今更傷つくこともなく、言葉はどこか他人事のように通り過ぎて……


行かなかった。

レオンが指をパチンと鳴らすと、彼女たち3人の下から風が舞い上がった。

スカートが豪快に捲れ上がる。

「キャアーーーー!」

3人は慌ててスカートを手で押さえた。

「白、黒、赤、と。 いやあ、悪戯な風だ!」

軽口混じりに捲し立てる。

「気をつけなきゃな、お嬢さん方。品良く口を閉じてないと、変な風がまた吹くぞ」


ジト目、涙目でレオンを睨む生徒たち。

(ふっ、ちょっと大人げなかったな)

レオンは余裕のある表情で通り過ぎようとした。


その瞬間、ピリッと静電気が走るような感覚をレオンは覚えた。

気にせず立ち去ろうとしたが、すぐに立ち止まる。


(この感覚……? あれ、コレは?)

ハッとして、レオンは辺りを見渡す。


「俺以外に古典魔法をギャアーーーーー!」

突然10メートルほど吹っ飛ばされるレオン。先ほどの赤い下着と髪をした少女のドロップキックが炸裂していた。

恥辱と怒りでプルプルと震えながら叫ぶ。

「先ほどの突風の原因、貴方ですね!?」


ゴロゴロと転がり壁に激突したレオンだったが、すぐに平然と立ち上がった。

タンコブはできていたが。


服についた泥を払いながら、レオンは惚ける。

「何を言うんだ、お嬢さん。詠唱も無しに、そんなパパッと魔法は出ないだろう?」


しかし少女も食い下がる。

「それはそうですが……しかし……、しかし貴方から何かを感じたのです!」

そう言うと、少女は再び猛烈な勢いでレオンに向かってきた――彼を試すかのように、奇妙な体験に惹かれるように。


レオンは赤髪の少女を見据えた。

非凡だと感じる。

魔法ではなく、あえて肉弾戦で挑んでくるのも、何かしらの彼女の意図を感じる。


レオンはこの赤髪の少女に少し敬意を抱いた。

この時代、不思議に対して即座に反応し、向かって来れる人間はそういない。


「特別レッスンだ」

レオンは小さく呟くと、柔らかい表情のまま握った右手を少女に向け、すぐにその手をパッと開いた。

少女はレオンの動きにハッと身構えたが、すぐに力が抜けていく。


外野から見ると、彼女の動きは奇妙であった。警戒し構えたその体が、急に力無く崩れる。それからフラフラとレオンに倒れ込んでしまったのだ。


レオンは少女が地面に倒れ込まないよう抱き抱えた。そのまま友人2人の前まで運び、優しく下ろす。


少女はスースーと寝息を立てている。

「少し疲れてしまったようだ」

赤髪少女の友人2人は訳もわからず混乱している。


「私が女子寮に入るわけにもいかない。2人で彼女の寝室まで運んでくれるか?」

レオンは優しくそう言うと、にっこりとした笑顔で「頼んだよ」と言い残し去っていった。


まだ状況が飲み込めずポカンとする友人2人だったが、そのうちの銀髪の少女が口を開いた。

「スマート過ぎる……。時代遅れなエロオヤジ、じゃない?」

もう1人の黒髪の少女もじっとレオンの後ろ姿を見つめながら言った。

「あのスマイル、ヤバい……」


レオンは再び静電気の感覚を感じながらも、足早に地下室の部屋を目指した。

残された少女たちは、風のように去るレオンの優雅な動きをポーッと眺めていた。

しかし……


「ンン、ギギギ……。誰が、魔力ゼロの、動物、だ…!」


少女たちの悪口を紳士的に対処しても尚、レオンにはモヤモヤが残っていた。

「魔力が低い」ということ――レオンがずっと引きずるコンプレックスだった。


グルグルと空回るネガティブ思考に陥ったとき、レオンは決まって筋トレに勤しむ。

何年経っても浮かび上がる「低魔力」の烙印。

コンプレックスを刺激される度に、レオンは筋トレで痛みの上書きをするのだった。


「魔力測定でも、ンンン……50は、出たわ! くそーーーー!!!!」


レオンの叫びに呼応するかの如く、開いたままの古書が数ページ、パラパラと捲れていった。


続く

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