第10話(白崎澪視点)

佐久間との関係は、あの日を境に終わらなかった。

むしろ、そこからが始まりだった。


「澪ちゃん、就活とかいらないよ。俺が面倒みてやるから」


笑いながら言う佐久間に、私の返事はなかった。

就活も、講義も、友達も、全てが遠ざかっていく。


一度だけ母に相談しかけたことがあった。

けれど、もし映像が流れれば――家族もすべて終わる。

喉まで出かかった言葉は、飲み込むしかなかった。


大学を卒業する頃、私はすでに「佐久間の女」になっていた。

彼の指示に従い、彼の部屋で家事をし、望まれるまま身体を差し出す。

抵抗すれば、動画をチラつかせて笑うだけ。


そして、卒業の春。


「結婚しようぜ。そしたら、もう逃げられないだろ?」


指輪も、誓いも、愛もないプロポーズだった。

ただの鎖。

でも、私は頷くしかなかった。


式もなく、役所に紙を出すだけの結婚。

その日から、私は本当の意味で、佐久間の所有物になった。


結婚生活は、地獄そのものだった。


佐久間は働かない。

昼過ぎに起き、ゲームをしたり、パチンコに行ったり。

夜は、別の女と遊びに出かける。


私が何かを言おうものなら、すぐに返ってくる。


「うるせぇな、黙ってろよ」

「忘れたのか? あの動画、消してないんだぜ?」


何度もスマホの画面を見せつけられた。

眠る私の体を映した映像。

あの日の悪夢は、終わっていなかった。


生活費も与えられない日が続いた。

電気代も、家賃も、私が全てどうにかしなければならない。


だから、私は生きるために働いた。

夜の店で、身体を見せて、使って、金を必死に稼いだ。

これは高校生の時の罪なんだと思い込ませて。


もうその時には

心を殺す方法は、いつの間にか覚えてしまっていた。


帰宅すると、佐久間は他の女を連れ込んでいた。

笑い声と、甘ったるい匂い。

「佐久間 いい!もっと!」

別の女が私の家で、私の旦那と感情が赴くままに行為をしている。

それを見ても、私は何も言えない。


(……もう、私じゃないみたい)


鏡に映るのは、無表情の顔の女。

かつての「優等生の澪」も、「幼なじみの澪」も、もうどこにもいなかった。


雨の夜、佐久間は笑いながら言った。


「お前、ほんと便利だな。金も稼ぐし、家も守るし、泣きもしない、顔と体もいい」

「だけど、無表情だからあきる とりあえず、稼いだ分よこせ」


心の奥で何かが壊れる音がした。

でも、涙は出なかった。


生きている実感は、もうなかったから。


佐久間との結婚生活は、半年を過ぎたあたりで、もう完全に私の心を壊していた。

正常な思考能力すらその時にはなかった気がする。


夜の仕事で身体を使い、昼は掃除と洗濯、食事の用意。

世間的に、顔が良いからか、体が良いからか、分からないが、客は増え金は稼げた。


そして、佐久間は私の稼いだ金で遊び、女を連れ込み、笑う。

「なぁ澪、お前、ほんとに俺に感謝してるよな?」


そう言いながら、私の頬を軽く叩く。

拒否しても、反論しても、次に来るのは拳か、あのスマホの画面だった。



ある日、私が遅く帰宅すると、部屋には知らない女が二人いた。

ソファで笑う佐久間は、私を見るとニヤリと笑った。


「おかえり、稼ぎ頭」


その女の一人が、わざとらしく私を見下すように笑った。


「ほんとに奥さんなの? かわいそー」


そして佐久間が言った。

「なー、凜 そろそろ出て行っていいぞ 金とお前の住所は送れよ」

「え?」

「お前との動画。実は売っててな バカほど売れてストックもたくさんあるし 億は余裕で超えそうだからな」

「そろそろ、新しい女も欲しい頃合いだしな」


その瞬間、心の奥で何かが完全に折れた。


その日の夜、ベランダに立った。

冬の風が頬を刺す。

見下ろした先には、アスファルトと街灯の光。


(ここから落ちれば……終わるのかな)


胸の奥に浮かんだのは、悠真の笑顔だった。

そして、卒業式の日に彼が残した、たった一言のメッセージ。


――「ごめん。守れなかった」


涙が、頬を伝った。

最後に、私は自分に小さく呟いた。


「……今度こそ、ちゃんと、守るから そして、ごめんなさい。」


足を一歩、踏み出した。

世界は音もなく、闇に溶けていった。

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