第8話(白崎澪視点)

気がつくと、私は静かな部屋の中にいた。


夕方のオレンジがカーテンの隙間から差し込んでいて、目を開けたばかりの私の視界をぼんやり染めていた。


(ああ……寝ちゃったんだ)


悠真くんと過ごした休日の余韻が、まだ心の奥に残っている。


でも、それよりも――


胸の奥にある、ずっと塞がらない傷跡のような痛み。


「……また、思い出しちゃうんだね」


呟いた瞬間、視界が滲んで、世界が滲む。


――記憶が、再生されていく。


そこは、一周目の世界。


高校二年の終わり。春が近づいていた頃のことだった。


悠真くんは、“みんなに優しい”まま、ヒロインたちと少しずつ距離を縮めていった。


最初は、ただの親切だと思ってた。誰にでも平等に接するのが、悠真くんらしいと思ってた。


でも、違った。


アイドルの天音さん。妹の紬ちゃん。無名配信者の琴羽さん。あがり症の女優・陽菜さん。ダンスが苦手なみのりさん――


気づけば、全員が悠真くんを想っていた。


私も、そのうちのひとり。


でも私は、誰にも言えなかった。


「選ばなきゃ、全員が傷つく」

「一人だけを選んで」


……そうお願いしたはずなのに。


悠真くんは、“全員を傷つける道”を選んでしまった。


最初に崩れたのは、みのりさんだった。


彼女は地下アイドルとして活動していたけど、ダンスが苦手で、自信がなかった。


そんな時、悠真くんが支えてあげて――彼女は、本気で好きになっていった。


でも、他の女の子たちと仲良くしてる悠真くんを見て、彼女は耐えきれなくなったのだと思う。


ある日、学校を休んだ。


次の日も、その次の日も。

彼女が教室に戻ってくることは、もうなかった。


陽菜さんは、涙を流しながら悠真くんを責めた。


「どうして……どうして誰にでも優しくするの? 私だけじゃ……だめだったの?」


その言葉は、教室中に響いた。


静まり返った空間の中で、悠真くんは何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。


彼の顔が、あんなに苦しそうだったのを、私ははじめて見た。


でも――


誰かの想いに、応えることも拒絶することもできずにいた悠真くんに、クラス全体が不信感を持ち始めていた。


「なに、あいつ。結局チャラいだけじゃん」

「優しいフリして、みんなに手ぇ出してるんでしょ?」

「ヒロイン気取りの女子たちも、バカみたい」


噂は一気に広がっていった。


教室は、冷たくて、重たくて、息が詰まる場所になっていった。


そして――


それでも、私は黙っていた。


(本当は、助けたかったのに……)


私が止めていれば、あの時、勇気を出して伝えていれば――

こんなことには、ならなかったかもしれないのに。


教室で、ひとりぼっちの悠真くん。

部活も辞めて、昼休みもずっと席に座ったまま。

誰とも話さず、目も合わさず。


どんどん、彼は壊れていった。


……そして私は、何もできなかった。


あの春の風を、私は今でも忘れられない。


クラスの笑い声の中、ひとり静かに教室を出ていった彼の背中を、私はただ見つめていた。


(……ここから、もう戻れないんだ)


胸の奥が、ちりちりと焼けつくように痛かった。


あれが、“ハーレムルート”の結末――


誰も幸せになれない、最悪のバッドエンドの始まりだった。


その日、学校はいつもより静かだった。


卒業式まで、あとわずか。

教室の空気は、どこか浮き足立っていて、でも私はその喧騒の外側にいた。


悠真くんは、相変わらずひとりだった。

誰とも話さず、席に座ってじっと前を見ているだけ。


声をかけようとして、何度も足を止めた。

でも、何も言えなかった。


――自分が、何も言える立場じゃないと思っていたから。


「悠真くん、ねえ……あの時、どうして――」


心の中で何度も問いかけていた。

けれど、返ってくるのは沈黙ばかり。


親たちの介入は、突然だった。


ヒロインのひとり――陽菜さんの母親が学校に怒鳴り込んできた。

その翌日には、天音さんの事務所関係者が校長室へ訪問していた。


「娘が傷ついた」

「将来が潰れたらどうするんだ」

「責任を取ってもらう」


悠真くんは“加害者”として扱われていた。

誰も、彼の心の中に寄り添おうとしなかった。


先生たちは、問題を穏便に済ませるために“彼の自主退学”を勧めた。


「このままだと進路にも影響するぞ」

「お前のためだ、静かに終わらせよう」


どの言葉も、“本気で心配してる”なんて顔ではなかった。


「ねえ、悠真くん……もうやめようよ。逃げようよ」


一度だけ、私は勇気を振り絞って声をかけた。


放課後の教室。彼は窓際で、ただ外を見つめていた。


「どこに?」


「どこでもいいよ。一緒にいれば、私は……」


「ありがとう、澪」


彼は笑った。

今までで一番、優しい、けど、寂しげな笑顔だった。


「でも俺、もう逃げる場所なんてないんだ」


その言葉が、今でも耳に残ってる。

まるで“遺言”のように。


そして、卒業式の日が来た。


雨が降っていた。

校庭に並んだ椅子にはビニールシートがかけられて、先生たちがバタバタと走っていた。


その式の途中、私は気づいた。


――悠真くんの姿が、ない。


クラスメイトたちは気にも留めなかった。

先生たちも、名前を読み上げるだけで流していった。


私は、気がついたら走っていた。

教室、廊下、体育館の裏、屋上――どこにもいなかった。


まるで、最初から“存在していなかった”みたいに。


その日の夜、私は彼の家の前まで行った。


呼び鈴を押せなかった。

玄関の前で立ち尽くすだけだった。


――そして数日後。


「久城悠真くんが……亡くなったって……」


誰かの噂話のように、風のように、その知らせはやってきた。


列車に飛び込んだとか、川に落ちたとか、屋上から――とか。

色んな憶測が飛び交ったけど、結局、何が本当かは誰も教えてくれなかった。


遺書も、遺品も、ほとんどなかった。

でも、私の机の中に、ひとつだけ――白い封筒が入っていた。


差出人の名前はなかったけど、中には折りたたまれた五線譜。


そして、そこに書かれていたメッセージ。


『誰かを選べなかった俺が、誰のことも守れなかった。

でも、最後に君の声だけが、救いだった。

ありがとう、澪』


私は、その場に崩れ落ちた。


何も救えなかった。

好きだったのに、何ひとつ伝えられなかった。


ただ、彼の“最期”を見送ることすら、できなかった。


この世界の終わりは、静かだった。


でも、その痛みは今でも、心を焼き続けている。


私は、あの日から何度も願った。

「やり直せるなら」「もう一度会えるなら」って。


だから、もしも神様がいるのなら――


お願い。


次こそは、私が悠真くんを救うから。

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