第6話

「ねえ、悠真くん。選んでよ」


「お兄ちゃん、私たち、もう子どもじゃないんだよ?」


夕暮れの風が吹き抜ける屋上。澪と紬、ふたりのヒロインからの“宣告”のような言葉が突き刺さる。


どちらを選んでも、誰かが傷つく。選択肢じゃない。ただの――修羅場だ。


その空気を遮るように、チャイムが鳴り響いた。


昼休みが終わり、日常が戻ってくる。遠くで担任の声が呼びかけるのが聞こえた。


「戻らないと、先生に怒られるよ」


澪がぽつりと呟いた。紬も少しバツの悪そうな顔で、階段の方へと歩き出す。


俺も、ただ無言で彼女たちの後ろを追いかけた。


(なんなんだよ、これ……)


胸の奥がざわついたまま、午後の授業が始まった。


頭がぼんやりしていて、授業の内容なんてまるで入ってこない。教科書を開いてはいるけれど、目は上の空。隣の澪がノートに何か書いているのが見える。


――「未来は変えられる」


また、あの言葉だった。


今朝ノートに書き殴っていたあれが、今も続いている。


(……やっぱり、あいつ本気なんだな)


ちらりと視線を向けると、澪は気づいたように目線を逸らした。けれどその頬は、ほんのりと赤く染まっていた。


その数列のような文字の裏には、確かな“覚悟”がにじんでいる気がして――俺は直視できなかった。


さらに前方の席、教壇近くには神埼天音。トップアイドルとしてのオーラは隠しきれず、それだけで空間が緊張する。


けれど、彼女もまたどこか上の空のようで、窓の外をじっと見つめていた。


放課後。チャイムが鳴ると同時に、クラスが騒がしくなる。


友達同士が集まって帰る準備をしたり、部活へと向かったり。でも、俺の身体はまだ重い。立ち上がる気力もない。


そんな中――


「悠真くん、ちょっと来てくれる?」


澪が俺の袖をそっと引いた。


「え? どこへ?」


「……音楽室」


彼女の目は真剣だった。いつもの優等生スマイルではない、意志を込めたまなざし。


「……わかった」


教室を出て、並んで歩く。廊下に響く足音が、いつもよりずっと遠くに感じられた。


放課後の音楽室は静かだった。夕日が差し込む窓の外では、鳥が鳴いている。


俺たちは向かい合って座る。机の上には、俺が普段使っているスケッチブックが一冊置かれていた。


「……この場所、なんか落ち着くよね」


「うん。去年も、放課後によく来てたな。作曲の真似ごとしたり」


「悠真くんの初めての曲、覚えてるよ。あれ、すっごく下手だったけど……優しい音だった」


「なんだそれ、けなしてんのか褒めてんのか」


「どっちも。ふふ」


笑いながらも、澪の表情はすぐに真剣へと戻った。


「……悠真くん。今日ここに来てもらったのは、ちゃんと伝えたいことがあるから」


「……うん」


「私――もう、“幼なじみ”って言葉に甘えるのやめる」


そう言ったとき、彼女の声は少しだけ震えていた。


「ずっと側にいて、いつも一緒にいて、それだけで満足してるふりをしてた。でも、本当は怖かったの。他の誰かに取られるのが。……だから、今度こそちゃんと、ヒロインになるって決めたの」


夕日が澪の頬を赤く染めていた。


「悠真くん。……私、ずっと前から、ずっと――好きだったよ」


その言葉は、真っ直ぐで、逃げ場のない告白だった。


言い訳も、冗談も混じっていない。“ルート”の名のもとに始まったこの物語の中で、最もリアルな想いだった。


放課後の音楽室に、夕日が差し込んでいた。

古びたピアノの表面に、橙色の光がゆらゆらと揺れている。


俺と澪は、向かい合って座っていた。

外の喧騒が遠くに聞こえてくるなか、教室の中は静まり返っていた。


「……さっきはごめんね。屋上で、あんな言い方して」


そう言って澪は、ふと目を伏せる。

彼女の髪が揺れて、ほんのりとした石鹸の香りが漂った。


「けど、ちゃんと伝えたかったの。悠真くんの優しさが……時々、怖くなることがあるって」


「怖くなる?」


「うん。だって、悠真くんって、誰にでも分け隔てなく優しいでしょ? それが嬉しい反面――簡単に、他の子の“ルート”に入っていっちゃうんじゃないかって」


(……ルート)


ゲームの世界だって言い張る彼女の“記憶”を、完全に信じているわけじゃない。

けれど、今の澪の目は、冗談を言ってるとは到底思えなかった。


「私はね……この世界で、一周目の記憶があるの。前の“ルート”で、悠真くんがどうなったかも……全部、知ってる」


「全部って……」


「……だから、怖いの。

前みたいに――誰にも選ばれなくて、誰か一人でも置いていかれて、またあんなふうになったらって」


俺が言葉を探している間に、澪は続けた。


「“ハーレムルート”って、聞こえはいいかもしれない。けど、あれは――どこまでも脆くて、危ういの。

だれもが幸せになるなんて、綺麗ごとなの。……少しでも心がすれ違えば、全部壊れてしまう」


「澪、それって――」


「だからお願い。……私だけを見て、なんて言わないよ。

でもせめて、“誰か”を選んで。中途半端な優しさで、全員に好かれようとするのは――本当に、危ないの」


その目は、切実だった。

どこか、過去に何かを“失った人間”だけが持つような、哀しみを含んでいた。


けれど、彼女がその詳細を語ることはなかった。

ただ――その表情が、全てを物語っていた。


「……悠真くん」


名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。


「私、ちゃんとヒロインになる。だから……覚悟してね」


それは笑顔だったけれど、どこか決意を秘めた笑顔だった。

恋に、命を賭ける――そんな勢いすら感じた。


窓の外では、夕日が沈みかけている。

長く伸びる影の中で、澪の声が小さく揺れた。


「……ねえ、悠真くん。

このまま、また“あの日”みたいになったら、きっと私は――もう、立ち直れないと思う」


“あの日”。

その言葉に込められた意味を、俺はまだ知らなかった。


けれど、澪がそれを言葉にするには――

まだ少しだけ、勇気が足りなかったのだと思う。


俺は黙って、澪の言葉を受け止めた。

答えなんて、すぐには出せない。けれど――この想いだけは、確かに響いていた。


こうして、澪の“ルート”が動き出した。

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