第3話 零れ落ちた祈り

夜風が、俺とエマの間を、冷たく吹き抜けていった。

彼女が差し出した布を、俺は受け取ることができなかった。

この手で、彼女の優しさに触れる資格など、ない。


「アレンさん……」


エマが、何かを言おうと口を開く。

その前に、俺は重い口を開いた。


「……世話になったな、エマ」


「え……?」


「村長にも、よろしく伝えてくれ。短い間だったが……静かで、いい村だった」


それは、紛れもない別れの言葉だった。

エマの顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。


「ま、待ってください! どうして……! 行かないでください!」


彼女は俺の腕を掴もうとして、寸前で思いとどまったように手を引っ込めた。

俺が放った、あの人ならざる力の残滓を、本能で恐れているのだろう。


「俺がいると、この村に災いが来る。さっきの連中が言っていた通りだ」


「でも……! でも、アレンさんがいなかったら、私、今頃……!」


「……」


「怖かった……です。アレンさんのあの力……正直、今も少し怖いです。でも……!」


エマは一度強く唇を噛むと、震える声で、それでもはっきりと続けた。


「でも、アレンさんが私たちを守ってくれたことも、わかってます! だから……!」


「もういい」


俺は、彼女の言葉を冷たく遮った。

これ以上、優しくされるのは耐えられなかった。

決心が、鈍ってしまうから。


「俺は……」


立ち去ろうとした、その時だった。


ザザッ!


森の茂みから、誰かが飛び出してくる音がした。

俺とエマが同時にそちらを向く。


「はぁっ……はぁっ……!」


そこに立っていたのは、俺たちよりも少し年下に見える、一人の少女だった。

サイズの合わないボロボロの革鎧。腰には錆びた長剣。

肩で大きく息をしながら、必死の形相で俺たちを、いや、俺だけを真っ直ぐに見つめていた。


「あ、あなたは……!」


少女は俺を指さし、次の瞬間には、まるで糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


「きゃっ!」


エマが驚いて駆け寄る。


「だ、大丈夫ですか!?」


「だ、大丈夫……です……。それより……」


少女は地面に手をついたまま、顔を上げる。

その瞳には、切実な光が宿っていた。


「見ました……! さっきの、見てました……!」


「……何のことだ」


「とぼけないでください! あなたが、あの黒い服の人たちを追い払ったのを……! あなたの、あの光の力を……!」


どうやら、物陰から一部始終を目撃していたらしい。

また面倒なことになった、と俺は内心で舌打ちした。


「あれは見間違いだ。疲れているんだろう。早く家に帰れ」


「嘘だ!」


少女は叫んだ。


「私は、ずっと見てた! 私……騎士になりたいんです! でも、才能がないって、剣の筋が悪いって……誰からも馬鹿にされて……!」


ぽつり、ぽつりと語られる彼女の境遇。

それは、かつての俺には無縁だった言葉。

だが、今の俺には、その痛みが少しだけわかる気がした。


「だから……!」


少女は、ずりずりと膝で地面を這い、俺の足元まで来ると、泥だらけの額を地面にこすりつけた。


「お願いしますっ!」


魂からの叫びだった。


「私を……! 私を、弟子にしてくださいっ!」


「「…………え?」」


俺とエマの声が、綺麗に重なった。


弟子?

俺が?

誰かの師匠に?

ありえない。冗談にもほどがある。


「断る」


俺は、一ミリの感情も込めずに即答した。


「俺は、誰かに何かを教えるような人間じゃない。それに、剣を握るのも、もうやめたんだ」


「そんな……! でも、あなたはあんなに強くて……!」


「あれは、ただのまやかしだ。お前のためにはならない。諦めて帰れ」


俺は少女に背を向け、今度こそこの場を去ろうとした。

俺に関わると、この少女も不幸になる。

それだけは、確かだった。


「嫌です! 諦めません!」


少女は、俺の外套の裾を必死に掴んだ。


「このまま村に帰っても、私には何もないんです! だったら……! だったら、あなたの側で死んだ方がマシだ!」


「……しつこい女だな」


「お願いします! どんなことでもします! 掃除でも、洗濯でも、何でもしますから! だから、あの力のほんの一欠片でもいい……私に、教えてください!」


その瞳は、狂気とすら呼べるほどの熱を帯びていた。

自分の無力さに絶望し、それでも何かを掴もうと必死にもがいている。

まるで、溺れている人間が藁を掴むように。


俺がその手を振り払おうとした、まさにその瞬間だった。


グォォオオオオオオオオッ!!


森の奥深くから、空気を震わせるような、不気味な咆哮が響き渡った。

それは、ただの獣の声ではない。

もっと禍々しく、聞くだけで背筋が凍るような、異質な音。


「な、なんだ今の音!?」

「気持ち悪い声……!」


遠巻きに見ていた村人たちが、再び恐怖の声を上げる。


「まさか……! もう、ここまで……!?」


足元にすがりついていた少女が、絶望に染まった顔で、咆哮のした方を見つめた。

その反応に、俺は眉をひそめる。


「……知っているのか。今の声」


「は、はい……。私の村を……襲った、魔物です……!」


「魔物……?」


違う。

俺は瞬時に感じ取っていた。

あれは、ただの魔物から発せられる気配ではない。

もっと邪悪で、人工的な……まるで、悪意そのものが形になったような、歪な気配。


クロードが言っていた。

『いずれ、本隊がここに来る』と。

だが、これは『影の騎士団』の気配とも違う。


(……なんだ? 何が、始まろうとしている……?)


俺の知らないところで、新たな災厄が、すぐそこまで迫ってきていた。

静かに暮らす。

ただそれだけの願いが、音を立てて崩れていく。


俺は、自分の外套を掴んだまま震えている少女と、不安そうに俺を見上げるエマの顔を、交互に見た。


そして、咆哮が響いた暗い森の奥を、静かに睨みつけた。

逃げることは、もう、許されないのかもしれない。

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