第4話 歪なる獣

グォォオオオオオオオオッ!!


冒涜的な咆哮が、再び夜の森に響き渡った。

地響きが、足元からじわじわと伝わってくる。

木々がなぎ倒される、破壊の音が確実にこちらへ近づいていた。


「ひぃっ! ま、魔物だ!」

「逃げろぉっ!」

「誰か、騎士様はいないのか!」


さっきまで遠巻きに見ていただけの村人たちが、完全なパニックに陥る。

我先にと家に向かって走り出す者、恐怖でその場にへたり込む者。

阿鼻叫喚の地獄絵図だ。


「……おい、お前」


俺は、自分の外套を掴んだまま震えている少女に、冷静に声をかけた。


「名前は」


「え……? あ、り、リアです……!」


「リアか。あの魔物のことを知っているなら、簡潔に話せ。時間はなさそうだ」


俺の落ち着き払った声に、リアは少しだけ冷静さを取り戻したようだった。


「は、はい! あれは……『歪なる獣(ディストーテッド・ビースト)』って、私の村では呼ばれてました……! 大きくて、力が強くて……普通の剣や斧は、まったく効かなくて……!」


「普通の武器が効かない、か」


なるほどな。

物理攻撃に高い耐性を持つタイプの魔物か、あるいは何か特殊な再生能力を持っているか。

どちらにせよ、厄介な相手なのは間違いない。


「アレン殿!」


その時、村長が顔面蒼白で俺にすがりついてきた。


「どうか……! どうか、この村をお救いくだされ! 礼は、村にできることなら何でも……!」


「アレンさん……!」


エマも、不安そうな顔で俺を見つめている。

その瞳には、恐怖だけではなく、わずかな期待の色が混じっていた。


俺は、天を仰いで、一つ大きなため息をついた。


(……どうしてこうなる)


静かに暮らしたい。

ただそれだけを願って、すべてを捨ててきたはずなのに。

運命は、俺に安息の時間すら与えてくれないらしい。


「……面倒なことに、なったな」


俺はぽつりと呟くと、覚悟を決めた。


「エマ」


「は、はい!」


「村の人たちをまとめて、一番頑丈な石造りの倉庫へ避難させろ。いいな、絶対にそこから出るな」


「わかりました! でも、アレンさんは!?」


「俺は、あれをどうにかしてくる」


俺は次に、足元で呆然としているリアに視線を移した。


「リア、お前はこっちだ。案内しろ」


「え……? わ、私、ですか?」


「お前が呼び込んだようなもんだろうが。責任の一端は取れ。それに、敵の情報を一番知っているのはお前だ」


有無を言わせぬ口調で告げると、リアはこくりと頷いた。

俺は、二人に背を向け、破壊音のする森の入り口へと歩き出す。


「アレンさん! 武器は……!」


エマの心配そうな声に、俺は足を止めずに答えた。


「いらん」


森の入り口で、俺は手頃な太さの、落ちていた木の枝を拾い上げた。

長さは剣と同じくらい。重さは比べ物にならないほど軽い。


「そ、そんな……木の枝で、戦うつもりですか……!?」


後ろからついてきたリアが、信じられないという顔で言う。


「うるさい。お前は黙って俺の指示に従え」


俺はリアを自分の少し後ろに下がらせる。


「いいか、絶対に俺より前に出るな。そして、敵の動きをよく見ておけ。どういう攻撃をしてくるか、弱点はどこか、それを見極めるのも修行のうちだ」


「しゅ、修行……」


リアが呆然と呟いた、その時。


ザンッ! バリバリバリッ!


目の前の木々がまとめて薙ぎ払われ、ついに『それ』は姿を現した。


「……っ!」


リアが息を呑む。

それは、悪夢そのものだった。

熊のような屈強な胴体に、狼の頭、蛇の尾、そして鷲の鉤爪を持つ、悍ましいキメラ。

全身の皮膚は継ぎ接ぎだらけで、その隙間から不気味な紫色の光が漏れている。

いくつもの目が、爛々と赤く輝き、俺たちを捉えていた。


「グルルルル……」


涎を垂らしながら、威嚇の声を上げる。


「……なるほどな。錬金術か魔術かで無理やり造られた、人工生命体か。趣味の悪いことをする」


俺は木の枝を、まるで本物の剣のように中段に構えた。

歪なる獣が、地面を蹴る。

巨体が、戦車のような勢いで突っ込んできた。


「アレン様っ!」


リアの悲鳴。

俺は、動かない。

ただ、敵の動きを、その呼吸さえも見極める。


――三歩前。


――二歩前。


――今だ。


俺は突進してくる獣の側面へ、紙一重で体を滑り込ませた。

獣は俺を見失い、そのままの勢いで数メートル先の地面に激突する。


「な……!?」


リアが驚愕の声を上げた。

彼女の目には、俺が瞬間移動したように見えただろう。


「攻撃パターンは単調。巨体に頼った力押しだけだな。だが……」


俺は振り返る獣の体を見つめる。

その胸の中心が、他の部位よりも強く、一瞬だけ紫に光るのを、俺は見逃さなかった。


「……核(コア)があるのか。わかりやすくて助かる」


「ガアアアアッ!」


空振りさせられた獣が、怒りの咆哮と共に巨大な鉤爪を振り下ろしてきた。

俺はそれを、構えた木の枝で、ひょいと受け流す。


パシンッ! と軽い音がして、攻撃の軌道が逸れる。


「う、嘘……! あの攻撃を、木の枝で……!」


「力の流れを読んで、逸らしただけだ。次が来るぞ、よく見ておけ」


蛇の尾が鞭のようにしなり、横薙ぎに俺を襲う。

俺はそれを軽く飛び越えて回避し、着地と同時に獣の懐へと潜り込んだ。

絶好の位置。


「――終わりだ」


俺は呟き、右手に持った木の枝に、ほんのわずかな魔力を込めた。

淡い光をまとった枝を、狙いすました獣の胸の核へ。


ズブリ。


木の枝は、まるでバターを切るように、抵抗なく獣の体に突き刺さった。


「ギィイイイイイイイアアアアアアッ!!」


獣が、これまでで一番の断末魔を上げる。

その体は内側からまばゆい光を放ち、俺が突き刺した木の枝は、その光に耐えきれずに砕け散った。

次の瞬間、獣の巨体は輪郭を失い、サラサラと黒い塵となって崩れ落ちていく。


後には、静寂だけが残った。


「……すごい……」


リアが、その場にへたり込んだまま、夢でも見ているかのように呟いた。


「木の枝、一本で……あの化け物を……」


俺は彼女に背を向けたまま、冷たく言い放つ。


「……これで、わかっただろう。俺に関わるな。俺の戦いは、お前のような子供が夢見る騎士ごっこじゃない。ろくなことにならんぞ」


今度こそ、彼女も諦めるだろう。

そう思った。


「いいえ!」


しかし、リアは力強く立ち上がった。

その瞳には、恐怖ではなく、燃えるような憧れの光が宿っていた。


「今ので、もっとはっきりとわかりました! あなたこそが、私の探し求めていた『本物』の騎士様です! もう一度、お願いします! 私を、弟子にしてください!」


「……まだ言うか、この女は」


俺が呆れて何か言い返そうとした、その時。

獣が塵となって消えた地面に、何か小さなものが落ちているのが目に入った。


チリリ、と金属の光。

俺はそれを拾い上げる。

それは、指の爪ほどの大きさの、小さな金属片だった。

そして、そこに刻まれていた紋様に、俺は息を呑んだ。


捻れた杖と、三つの目。

それは、王国と長年敵対している、『アークライト魔導院』の印。


「……クロードの言っていた『本隊』ってのは、こいつらのことか……?」


『影の騎士団』の襲撃。

そして、魔導院が造った魔獣の出現。

偶然のはずがない。

すべては、仕組まれていた。


「……そういうことか」


俺は金属片を強く握りしめた。

どうやら俺は、俺が思っている以上に、厄介で巨大な陰謀の渦中に、足を踏み入れてしまったらしい。

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