第7話:言わないで後悔するくらいなら

 二限目の終わりを告げるチャイムと同時に、教室がざわつき始めた。


 二年B組、山下優里。私は席を立ち、教室を出る。

 次の授業の前に、トイレに行っておこうと思っただけだった。


 ――けれど、“ただそれだけ”のはずの行動が、後にとんでもない事態を招くなんて、このときの私は思いもしなかった。


 廊下の角で、誰かとすれ違う。

 トイレから戻る途中の男子生徒。制服の袖が、どこか濡れている。


 真島健太くん。サッカー部で、いつも明るくクラスの中心にいる人。

 こんなときに限って、好きな男子に出くわすなんて。


「うわ、ビショビショだ……」

 彼が手を見ながらつぶやく。水道の蛇口を開けすぎたのだろうか。


「……あの、これ使う?」

 私は反射的にスカートのポケットからハンカチを取り出して差し出していた。

 少しでも話せるチャンスだと思ったのかもしれない。


「え、山下さん、ありがと!」


 真島くんは驚いたような顔をした後、素直に受け取って手を拭いた。

 布のこすれる音が妙に耳に残る。


「……女子のハンカチって、すごい柔らかいんだな」

 そう言って彼がにこっと笑う。その屈託のない笑顔に、心臓が跳ねた。


(ああ、やっぱりその笑顔、反則……)


 彼から返された布をポケットにしまい、何事もなかったかのように歩き出す。

 しかしその平穏は――トイレの個室で、あっけなく崩れた。


***


 カギをかけて便座に腰掛けた瞬間、ふと違和感がよぎる。


(柔らかいって、言ってたよね……?)


 さっきのハンカチをポケットから取り出して確認する。


 ……ピンク。

 やわらかい布地に、小さなリボンの縁取り。


 これ、ハンカチじゃない。


 パンツ――私のパンツだった。


「……え、嘘でしょ……?」


 思わず声が漏れた。冗談じゃない、本当にパンツだった。


 朝、母が「ハンカチ入れといたからね」と言っていたのを思い出す。

 確かに入ってた。でも、今思えば妙にふわっとしてたのはおかしかった。


 確認せずに持ってきた私が悪い。でも、それにしたって……

 よりによって、真島くんに渡すなんて――どんな運命のいたずら!?


 しかも、「柔らかい」とか……!


 ――うわ、うわ、うわ。


 私、好きな人にパンツを渡して、しかもそれで手を拭かせた……!


***


 三限目の化学の授業。黒板に書かれた内容なんて、まるで頭に入ってこない。


(……言った方がいい? でも、なんて言えば……)


 洗ってあるとはいえ、パンツで手を拭かせるなんてあり得ない。

 バレたら絶対ドン引きされる。嫌われたら、もう学校に来られないかもしれない。


 でも、あとで気づかれて、「なんで言ってくれなかったの?」って思われたら――?


(それだけは絶対イヤ……)


 たぶん、どれだけ後悔しても足りない。


(……言わないで後悔するくらいなら、ちゃんと言おう)


 放課後、どう切り出すかを何度も頭の中でシミュレーションした。


「ごめん、あれ実はパンツだったんだ」

「えっ、パンツ!? どうりで柔らかいと思った! ハハハ、教えてくれてありがとう!」

 ――そんな軽いノリで済んでほしい。そう願うしかなかった。


 放課後。昇降口は部活に向かう生徒たちで混雑していた。

 その中から真島くんを探す。


(よし、言う……!)


 サッカー部の友達と話している彼を見つけ、意を決して声をかけた。


「真島くん、あのさ――さっきのハンカチのことなんだけど……」


「うん? あ、山下さん!」


 彼はいつものように人懐っこい笑顔を見せる。その笑顔が、胸に刺さる。


「あの……びっくりしないで聞いてね」


「うん、どうしたの?」


「……ごめん、あれ、ほんとは……ハンカチじゃなくて、パンツだったの」


「……え?」


 空気が止まった。周囲の喧騒が遠くに感じられる。


「朝、母が間違えてポケットに入れてて……私、気づかなくて……ごめん。あの、洗ってあるやつだから……!」


 すべて言い終えたとき、真島くんの顔がみるみる赤くなっていくのが見えた。

 いつも堂々としている彼が、明らかに動揺している。


「……え、それって……山下の……?」


「う、うん……」


「……いや、すごい柔らかいなとは思ったけど……ええ……マジで……? たしかピンクでレースがついてて……」


(ちょ、あんまり詳細に思い出さないで!)


 彼の声は小さく、視線も泳ぎ、ものすごく照れている。

 なんなら、少し後ずさりしたように見えた。私も顔が火を吹きそう。目も合わせられない。


 こんなに気まずい空気になるなんて、想像していた以上だった。


「ごめん、なんて言えばいいのか分からないんだけど……言ってくれてありがとう! このことは秘密にするね」


 少し落ち着いたのか、いつもの明るい声に戻ったけれど、頬はまだ赤いままだった。


 翌日。

 真島くんと顔を合わせるのは、やっぱり気まずかった。

 どこかよそよそしい。

 お母さん、ほんとにこれ、どうしてくれるのよ……!



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