第8話:幼馴染
放課後のグラウンドは、まだ騒がしかった。
打球の音、声出しの掛け声、砂煙に混じる男たちの匂い。
フェンスの外、雑草の生えた土の斜面に、私たちは座っていた。
わたしは、二年A組 朝倉真奈。
制服のスカートを気にしながら、つま先で地面をなぞる。
六月の終わり。まだ梅雨は明けていないけれど、もう夏の匂いがしていた。
「さっきの英語、寝てたでしょ?」
「寝てない。まばたきしてただけ」
「5分はまばたきしてたよ」
友達の舞子と咲良。
いつもつるんでいるこの三人。特別な話はしないけれど、それが心地いい。
耳の奥で、野球部の声が途切れることなく続いていた。
「――風間、もう一球いくぞ!」
「声出せ、声!」
その名前が聞こえたとき、舞子がふと私のほうを見た。
「そういやさ、風間くんって真奈と知り合いなんだよね?」
「……うん。幼馴染。家、けっこう近い」
「えー、うらやま。風間くん、めっちゃカッコよくない? 黙ってるのに、リーダーって感じ」
「黙ってるからでしょ」
「それな」
三人で小さく笑う。
何でもない会話。でも、その中心に名前があると、ちょっとだけ変な気分になる。
風間くんとは、小さいころからよく一緒に遊んでいた。
同じ町内で親同士も仲が良くて、バーベキューや夏祭りでは、だいたいセットだった。
私がはぐれて泣いたとき、最初に見つけてくれたのも風間くんだった。
小さな背中で、私の手を引いて歩いてくれたのを、今でも覚えている。
あのころは、風間くんのほうが私よりずっと小さかったのに。
今では背も追い越され、会話は減ったけれど、ふいに視線が合うだけでドキッとする。
自分でもよくわからない。でも、ちょっとだけ――ほんの少しだけ、意識しているのかもしれない。
***
グラウンドの声が、少し落ち着いた。
どうやら休憩に入ったようだ。
数人の部員が、フェンスを出てこちら側へ歩いてくる。
肩にタオル、手にはスポーツドリンク。くしゃっとした髪に、泥のついたスパイク。
そのうちの二人が、私たちの前を通り過ぎた。
一瞬、視線が絡む。
(……ん?)
彼らの目線が、私を通り越して――いや、通り越していなかった気がして。
なんとなく不安になって、私はそっと姿勢を正した。
スカートの裾が少し浮いていたかもしれないと思い、膝を合わせる。
だけどそのとき、もうひとりがやってきた。
キャッチャーミットをぶら下げたまま、無言で歩く背の高い人影。風間くんだ。
フェンスを出て、私たちの横を通り過ぎようとして――止まった。
顔も向けず、ぽつりと。
「朝倉。パンツ、見えてる。白いやつ」
空気が変わった。
心臓が跳ねて、背中に冷たい汗が伝う。喉がひりつくような感覚。
慌ててスカートの裾を押さえ、足をすぼめる。
目の前がぼやけて、なにも見えない。視界が真っ白になって、ただただ恥ずかしさだけがこみ上げる。
「――っっっっっ!」
「たぶん、見られてた。他の部員にも。……気をつけろよ」
風間くんはそれだけ言って、ミットを担ぎなおした。
視線を合わせず、声も低いまま。
だけど、間違いなく聞こえる距離。そして、その低い声には、少しだけ焦りのような響きが含まれていた気がした。
私はうつむいたまま、喉の奥で何かがつかえているのを感じた。
***
風が吹いた。
誰も何も言わなかった、地獄のように長い数秒。
顔が熱くて、心臓が耳元でうるさい。舞子と咲良がどんな顔をしているのか、怖くて見上げられなかった。
そして、舞子が静かに口を開く。
「ねえ……ねえねえ。ねえってば」
わざとらしい口調。からかうようで、でもどこか探るような。
「風間くんと、付き合ってるわけじゃないんだよね?」
私が黙っていると、今度は咲良が肩をすくめた。
「普通あんな言い方しないでしょ。あれ完全に彼氏の距離感だよ」
「ていうか“白いの”って。色まで言う!? あれって優しさなの? 地獄なの?」
「空気、完全に付き合ってるって感じだったけどな〜」
舞子が、突然大げさな声で風間のセリフをマネし始める。
「朝倉。パンツ、見えてる。白いの! だって~」
「きゃー!」
咲良が両手で顔を覆って転がる。
「ちょっと! やめてよ~!!」
私はスカートの裾を押さえたまま、耳まで真っ赤になった。
だけど舞子は、とどめを刺すようにニヤニヤしながら続ける。
「ふーん、で――朝倉選手! いつから付き合ってるんですか~?」
「ちがうってばっ!」
叫んだ声は、思ったより大きかった。
グラウンドのほうを見たら、風間が水を飲んでいて――目が合った、気がした。彼の視線が、ほんの少しだけこちらを向いていたような。
私はまた、スカートの裾を握りしめた。
……ほんと、最低。全部聞かれてたかもしれない。
でも――彼のあの言葉が、私への配慮だったとしたら? 他の誰でもなく、彼が、私だから教えてくれたのだとしたら?
ほんの少しだけ、胸の奥にじんわりとした温かさが広がる。
少しだけ、勇気を出して立ち上がる。
顔は赤いまま、目も合わせられないけれど、それでも口を開いた。
「……あの、もうすぐ夏の大会だよね」
風間くんは、少しだけ首をかしげた。その表情は読み取れない。
「がんばってね」
その目が、ほんの一瞬だけ驚いたように見えた。
すぐに、風間くんは無言でうなずく。そして、いつもより少しだけ、彼の口角が上がったような気がした。
それだけなのに、なぜか胸がいっぱいになってしまう。
体中に広がっていた熱が、じんわりと心臓に集まっていくようだった。
白い布一枚の出来事が、今日の放課後を全部持っていった。
どうでもいい女子トークも、部活の声も、夕暮れの匂いも。
全部が、風間くんのあの声と一緒に、頭の奥でリフレインしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます