第9話-2
ソラさんは私のことなんて、ちっとも思ってくれていなかったんだ。
じゃあなんだって、あんなにやさしくしたの? やさしいなんて、ずるい……!
「次に涼介くんと代わったら、僕はもうここには来られないと思う。時間は残されていない」
戸惑う私を、ソラさんは抱きしめた。
なんで……どうして? ほかにたいせつな人がいるのに。
そう思いながら、私はソラさんに抱きついた。強く強く、抱きしめあった。
たしかにソラさんは、ここにいる。涼介じゃなくて、ソラさんがいる。
そして私も、ここにいる。大きな腕の中で、私は自分の小ささと身体の輪郭を知る。
熱い涙が頬をつたう。
「ソラさん、また来てください。絶対、空襲を生き延びてください!」
ソラさんはそれにはこたえず、私からそっと離れて、見つめてくれた。
「小春ちゃん」
笑みを浮かべる。
「ありがとう……」
急に、私にまわす、ソラさんのうでの力が抜けた。
その場に倒れこむ。
「大丈夫ですか? ねえ、ソラさん?」
やがて「ん……」という声が聴こえ、彼が目覚めた。
「……涼介?」
うなずいて私を見た涼介の涼介の目が、どんどん潤んで赤くなっていく。
涙をこぼすのを見ているうちに、背すじが凍りついて、身体じゅうに冷たくて痛い刺激が走った。
「……死んじゃったよ。ソラ、もういないよ……東京大空襲で!」
「どうして涼介にわかるの?」
ひとしきり泣いた涼介は、「思いだしたんだ」、ぽつりとつぶやいた。
「思いだしたって?」
心臓がきゅっとなって、口から飛びだしそう。
「ついさっき、最期のときを見て……」
それ以上、私は聞かなかった。聞きたくなかった。
ただわかったのは、ソラさんが空襲の犠牲になったということ。
志半ばで、夢を時代に奪われ、命を戦争で摘まれたということ。
ソラさんは、もういない。
二度と私の前に、現れることはない――。
どれほど泣いただろう。
星も月も雲も空も、なにを見てもかなしくて、気づけば涙がこぼれていた。
川面に浮かぶ朝陽を見ても、さわやかな風が駆け抜けても、必ずソラさんをさがしてしまう。
このかなしみは、失恋のせいだけじゃない。
彼はもう、この世界からいなくなってしまった。生きる時代がちがうのだから、それは当たり前かもしれないけれど。
永遠の別れを経験したことで、私はどうしても歩きだせない。
あの人の最期を想像して、低空飛行の飛行機にも、ガス台の炎にも、オーブンの熱にも、怯えるようになってしまった。
爆撃機の音や、空襲による火災を連想してしまうから。
そんな私を涼介は見守り、なぐさめてくれた。あたたかく、やさしく、まるで子どものころのように。
ソラさんがいなくなって、季節が少しずつ移ろいでいった。本格的な梅雨に入り、雨の日が多くなった。それも、しとしとという、情緒のある雨ばかりではない。ゲリラ豪雨のときもある。
突然の大雨のときには、決まってソラさんを思いだす。あの日、傘を届けてくれたソラさんを。
私はからっぽになってしまった。そのからっぽの中には、かなしみだけが詰まっている。
まるで私は、でんでんむしだ。
なにを見ても、なにを感じても、泣きたくなってしまう。
泣いて、その涙の塩分でへなへなになって、どんどん小さくなっていくような錯覚を抱く。
こういうときは、吟行だ。外に出て、短歌の素をさがしだすんだ。
私は華恋に、短歌を教えるという大変な仕事もある。華恋の短歌が彼女の推しに読まれるよう、導いてあげないとならない。
以前の私なら、そんな大それたことなんてできない、そう思った。
でも今はもう、新しい私。バージョンアップした、強くなりたい、夢を持ちたい私。
それはソラさんが教えてくれたこと。だからなんとかなる。なんとかする。
ぱらぱらと小雨の降る庭で、うす紫に染まった紫陽花を見ながら、そんな決意を抱く。
ふいに、蝶が飛んできた。キアゲハだ。
私はスマートフォンのメモ機能に、思いを打ちこんでいく。
彼の人が旅路を終えた六月は涙雨降り蝶も濡れてた
文字にしたら、蝶の羽が起こすほどの風が、心に吹いて通り抜けた気がした。
詠むことはソラさんを思いだす。そうしてその中で、私はほんの少しだけ、癒やされていく。
この雨はきっと、慈雨。心を潤してくれる、恵みの雨。
ソラさんの生きた時代からつづく、空からの贈り物なんだ。
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