第9話-1 やさしい雨
体育の授業は嫌いだ。大嫌いだ。
それは私が、運動音痴だからという理由にほかならない。なんなら毎回、見学していたいくらい。
今日の授業はバレーボールだった。球技はとくに苦手だ。それでもやたらと見学ばかりもできない。
だから嫌々、こうして体育館にいる。今日の見学者は、ひとりもいなかった。
バレーは紅白戦で、自分の番が来るまで、壁際に三角ずわりをしているところだ。
男子は、もう半分のコートで、バスケットボール。
今の涼介の中身は、ソラさんだった。はじめてのバスケに、最初はおろおろしていたけれど、そこは運動神経抜群の涼介の身体。なんとかサマになってきた。
美理も咲良も男子のパス練習を、おなじく壁際にすわったまま、きらきらした目で見つめている。
華恋は……と思い、視線を向けると、どうも様子がヘンだ。青ざめた顔で、壁によりかかってすわっている。体調が悪いのだろうか。
「本宮! しゃんとしなさい。壁によりかかるな!」
鬼のバレー部顧問である、体育教師が一喝した。
華恋が背すじを伸ばしたのはほんの数秒、すぐさまお腹を押さえて前のめりになった。
あの感じ、ただごとじゃない。だけど、バレーの紅白戦を見ていなきゃならないはずの女子はみんな、男子のバスケに夢中で、華恋の異変に気づかない。
私を苦しめる人なんて、どうにでもなれ。
そんな醜い感情とともに、ソラさんならきっと見捨てたりしないという、別の選択が浮かんだ。
私は思い切って立ちあがると、彼女のそばに近寄った。
「本宮さん、大丈夫?」
「なによ、ガガンボ。大丈夫に決まってるでしょ」
気の強い人ほど、大丈夫と言うんだ。ほんとうは全然、大丈夫なんかじゃないのに。
「保健室、行こう? もしかしたら、お腹痛い? 生理痛だったりする?」
「え……ああ……まあね」
「じゃ、私、先生に言ってくるね」
「待ってよ、あいつ、めっちゃ怖いじゃん! これくらいで……」
「あの先生だって女子なんだから、わかってくれるよ」
私は笛を吹いてコートの生徒たちを指導する、先生のそばに近寄った。
「なに、都倉。今さら見学する気?」
「いえ……本宮さん、生理痛がひどいみたいです。保健室につれていきますね」
「はあ? ひとりで行かせればいいでしょ。あんたは次、コートに入る番でしょ」
「でも! すごくつらそうなんです。お腹痛がってて、貧血もあるのか、めまいもするみたいなんです。途中で転んで……そう、転んで階段から落ちて、菊池涼介みたいなことになったら、先生の責任も問われかねないですよ?」
こんな怖い先生を相手に、どうしてすらすら言えるんだろう。
「……わかった。つれてきな。都倉は早く帰ってきなさいね」
「はい!」
そうして華恋に手を貸しながら、ふたりで保健室に向かった。
「なんで? 私、あんたのこと、さんざんいじってきたのに」
「だって、辛そうなの、見てられないよ。うちの母親もね、生理痛がものすごくひどいときがあるから、わかるの。それに、丈琉の恩人だし」
ふうん、とうなずいて、華恋は足を止めた。
「あのさ、あの……ありがと」
その感謝の言葉は、思いがけなかった。
ありがとうって言われたいから、したことではなかった。だからこそ、言われてなんだか、妙にうれしい。
「ねえ、ガガンボ……じゃなくて都倉さん。あたしの推し、誰だか知ってる?」
長い廊下をゆっくり歩きはじめながら、意外な問いかけ。
「推しって、涼介でしょう?」
ぷっと笑って、華恋は「痛っ」と、お腹に手を当てた。
「涼介は、推しにちょっと似てるから、お気に入りだっただけ。それに、美理の本命だし。ほんとうの推しは、Doreamerっていうボーイズグループの、ヒロトっていうイケメンなの」
知らなかった。でもなんで唐突に教えてくれるんだろう。
「そのヒロトがね、ラジオの短歌の時間、司会をやることに決まったの。短歌を募集するんだって。うまくすると、生放送で本人が読んでくれるんだって。これ、送らないわけにいかないでしょ?」
「へえ……短歌って、けっこう今、人気あるみたいだよね」
「だからね、短歌の勉強したくて。都倉さん、こんど短歌のこと、教えてくれないかな?」
「私が?」
「あんたしかいないよ。だってさ、あたし……都倉さん、じゃなくて、小春ちゃんの短歌、けっこういいなって、ホントは思ってたし。思ってたけど、なんか恥ずかしい気もして、からかっちゃったんだ……」
言いにくそうにもじもじする華恋の言葉が、信じられない。
調子いい、そう思った。でも次には、うれしい、そうも思った。
「あの……私にできることなら、協力するよ」
本心だった。誰かの役に立ちたかった。それが華恋であるとしても。
「やった! よろしくね。あー、お腹痛い。頭も痛い!」
保健室についた華恋を、養護教諭にバトンタッチする。
体育館に戻ろうとすると、「待って!」、ベッドに寝た華恋に呼び止められた。
「小春ちゃん……いろいろごめん……ほんとうに、ごめんなさい」
小さな声でも、ちゃんと耳に届いた。
それから華恋は、頭から蒲団をかぶってしまった。
「あ……お大事にね」
そうして保健室をあとにした。
まさか華恋にあやまられるだなんて。
まさか短歌を教える日が来るだなんて。
これって、すごい前進だ。思わず顔がにやついて、体育館へもどる足取りも軽い。
放課後、ソラさんとふたりで、帰りの電車に乗っているときだった。
長椅子にすわって、華恋に短歌を、という話をすると、ソラさんはものすごく喜んでくれた。
「よかった、ほんとうによかったね………っ!」
とたんにソラさんが頭を抱えこむ。
「ソラさん?」
これってもしかしたら、もしかすると。
息の荒くなるソラさんの背中をさすった。
「ソラさん、このあいだ、過去に戻ったとき、日にちはいつでしたか?」
「3月7日だった……」
そんな!
東京大空襲は3月9日の夜中、10日の未明だ。もう時間がない。
「ご家族だけでも助けてください! 絶対ですよ、ソラさん!」
「うん……そうするつもりだ……!」
やがて彼は現れた。
「うっ……」
息が荒い。
「ん……っ、はあっ……なんだここ、電車か」
「涼介! お、おかえり……ソラさんは?」
「あいつは目覚めたよ。あの時代に帰った」
停車駅に停まって、電車は人を吐きだし、また吸い入れた。
「そっか……でもまた、現れるよね?」
「どうかな。あのさ……」
言いよどみ、窓の向こうを見やる。その辛そうな目を見て、不安が押し寄せる。
「なに、言ってよ?」
「……オレ、3月9日の朝まで、向こうにいたんだ。ソラはまだ、東京にいるよ」
「そんな!」
東京大空襲は9日の真夜中、10日の未明……ソラさんは早く、東京から離れないとならない。
「向こうでオレにソラが見えても、ソラにはオレが見えないし、声も聴こえない。だからなんにもしてやれねえんだ」
「ね、それってソラさん、逃げる準備はしてるの?」
「いや、それが全然なんだ」
電車は走る。その先は未来。
だけど私は、過去に行きたい。
今すぐソラさんを助けに行きたい。
その夜、夕飯の支度を手伝っていると。
涼介の身体をまとって、ソラさんがたずねてきた。神妙な面持ちの彼を、私は2階の部屋に通した。
「僕なりに、考えたよ。僕が戦時中に戻って、もしも今の記憶がそのままだとして。東京大空襲や原爆投下、敗戦という悲惨な未来の結末を伝えても、そのために反戦思想の活動家たちと戦争反対の運動を起こしても、待っているのは当局からの逮捕や拷問、暗殺だよ」
そんな……どっちに転んでも、待つのは、死?
「そういう時代なんだ。命を懸けて僕なりに戦ったところで、人々が僕の話を信じるという保証はない。むしろ大噓つきで、国家転覆を謀る極悪人に仕立て上げられる可能性の方が大きい」
「だったら、ソラさんとご家族だけでも逃げてください!」
急激に涙で視界がぼやける。震える声で必死に言っても、目の前のソラさんは首を横に振った。
「いや、家族だけは助けたいけれど。たとえ憶えていたとしても、僕の行動で、歴史が変わるのはよくない。どうせ記憶を留めておけないのなら、僕は今ここで、運命を受け入れるよ。腹をくくる。それに……」
「それに?」
「逢いたい人がいるから。だからそのとき、僕は本所区にいないとならないんだ」
きっぱりと、ソラさんは言った。
「逢いたい人って、ご両親のことですか? あと、墓誌にあった従兄弟さん? その人たちを守るのに、一緒に逃げたらいいでしょう?」
「ちがうんだ。それもあるけれど……まあ、ほかにもね……」
「ソラさん?」
あ! そっか……なんだ、私の早とちりだったんだ。
ソラさんは私に気持ちがあるわけじゃなかった。
過去の世界に、たいせつな人がいたんだ。
「僕は、僕の手の届く人を、ちゃんと守りたい。たいせつにしたい」
なんて慈愛に満ちた、深い瞳だろう。
そんなまなざしで、よりによって私にほかの誰かへの想いを、はっきり伝えるなんて。
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