第7話 決意の雨と、屋上の約束

放課後の廊下には、人の気配がなかった。


空が曇っているせいか、いつもより早く薄暗く感じる校舎の中を、

俺は一人歩いていた。


教室を出てから、足が自然と向かっていたのは――屋上。


誰かに呼ばれたわけじゃない。今日だけは、自分の意思でここへ来た。


昨日までの出来事が、頭の中を何度もループしていた。

青葉の涙。若葉の告白。

そして、自分の曖昧すぎる態度。


「……自分でも、わかんねぇよ」


屋上の扉に手をかける。壊れたままの鍵は、いつものように軽く開いた。


雨の匂いが、ふっと鼻をくすぐった。


空はすっかり灰色。遠くのビルの輪郭も霞んで見える。


でも、ここが一番、頭を整理しやすい場所だった。誰かと向き合う前に、

まずは自分の気持ちと向き合わなきゃいけない。


そんなふうに思ったから。


レジャーシートは敷かれていない。ベンチ代わりのコンクリートに腰を下ろし、

制服の上着を脱いで膝の上に置く。


「……どっちかを選ぶ?」


誰かのことを想う気持ちは、数字じゃ測れない。どちらかの方が“より”好きなんて、そんな単純な話でもない。


だけど、どちらかと“未来”を選ぶなら、もうそろそろ……逃げるわけにはいかない。


「なにカッコつけてるの、雅」


そんな声がして、びくりと肩が跳ねた。


振り返ると、そこにいたのは若葉だった。


「……お前、いつの間に」


「さっきからいたよ。雅がぼーっとしてる間にね」


ショートボブの髪が、湿気で少しだけしっとりしていた。

いつもの小悪魔スマイルも、今日は控えめで。


「まさか、ここで雨に打たれて“答えを探す旅”に出てるとは思わなかったけど」


「……勝手に旅に出すな」


「じゃ、旅のお供になろっか?」


若葉は隣に腰を下ろした。ほんの数センチ。

だけど、それが今日はやけに近く感じる。


「なにか、言いたいことがあって来たんじゃないのか?」


俺がそう聞くと、若葉は空を見上げながらつぶやいた。


「んー……別に。今日の雅が、どうしてもひとりで悩んでる気がして、

つい来ちゃっただけ」


「……ありがとな」


「でもね。……そろそろ、ちゃんと答えてほしいなって思ってるよ」


「……やっぱ、そうなるか」


「青葉のことも、自分のことも、見てくれてるって言ってくれたのは嬉しかった。

でも、見るだけじゃ、わからないことってあるから」


若葉の言葉は、いつになく素直だった。


「……ずるいよな、俺」


「うん、ちょっとね。でも、そういうところも含めて、雅のこと好きになっちゃったからさ」


言われた瞬間、俺は言葉を失った。


それは冗談でもなければ、牽制でもない。


まっすぐな想いだった。


「なにか返してって言わないよ。

ただ……そのときが来たら、ちゃんと、あたしの目を見て話してね」


「……ああ。わかった」


若葉が、少しだけ安心したように笑った。


そして立ち上がると、俺の頭をぽんっと軽く叩いた。


「じゃ、がんばれ。……このバカ」


「……なんで最後に雑なんだよ」


「照れ隠しに決まってんじゃん」


そう言って若葉は、にっと笑って屋上を後にした。


残された俺は、もう一度深呼吸をした。


……風向きが変わった気がした。


次は、青葉と話そう。


きっと、それが俺にとって必要なことだから。


***


翌朝。


いつも通りの朝。若葉とは途中で合流し、ふたり並んで登校していた。


だけど、若葉は昨夜のことを一切口にしなかった。

ただ、いつものように軽口を叩いて笑っていた。


「雅、今日の髪型イマイチだねー。寝ぐせ?」


「昨日の夜に泣いてたやつに言われたくない」


「ちょっ、それはノーカウント!」


そんなやり取りが、少しだけ嬉しかった。


教室で別れ、青葉の教室へと向かう。


青葉は、窓際の席で静かに本を読んでいた。


俺に気づくと、穏やかに笑って立ち上がる。


「おはよう、雅」


「おはよう、青葉。……少し、いいか?」


「うん。ちょっとだけ、屋上行こっか」


「え?」


「……言いたいこと、私もあるから」


青葉の微笑みは、決意に満ちていた。


まるで――もう、覚悟を決めたかのように。


***


ふたりで並んで屋上までの階段を上る。


今日は風が少し強くて、扉を開けた瞬間、制服の裾がふわりと揺れた。


曇り空は相変わらず。だけど昨日とは違って、空気に湿気はない。

雨は――止んでいた。


「……この場所、やっぱり落ち着くね」


青葉がつぶやく。ポニーテールが風に揺れて、頬にかかる髪をそっと手で払う。


「それで……話って?」


俺が尋ねると、青葉はレジャーシートの上に座りながら、静かに息を吐いた。


「……昨日ね、若葉と少し話したの」


「え?」


「雅が、昨日の放課後に若葉と会ってたって聞いて、

なんとなく……私も向き合わなきゃって思った」


「青葉……」


「ずるいよね。ずっと、“天使の青葉”を演じて、誰にも本音を見せないでいたのに。ようやく少し素直になれたと思ったら、いきなり“答え”を求めようとしてる」


「そんなこと……」


「でも、もうごまかしたくないの。だから今日は、ちゃんと伝えに来た」


青葉は、俺の目をまっすぐ見つめて言った。


「雅のことが好きだよ」


その一言は、あまりにも静かで、だからこそ深く心に響いた。


「昔からずっと、“隣にいるのが当たり前”だと思ってた。

でも、高校に入ってクラスが別になって、

雅が誰かに笑いかけてるのを遠くから見るようになって――気づいたの」


「……なにを?」


「私は、ただの“幼馴染”でいるのが怖かったんだって」


青葉の手が、ぎゅっと制服の裾を握りしめる。


「若葉と雅が楽しそうにしてるのを見るのも、

雅が他の誰かをスケッチしてるのも

……全部、苦しかった。でもそれを口にしたら、壊れちゃう気がして」


「……俺も、怖かったよ」


ぽつりと出たその言葉に、青葉が目を見開く。


「誰かを選ぶことで、もう一人を傷つけるかもしれないって。

それを考えると、ずっと足が止まってた」


「それでも、向き合おうとしてくれたんだよね?」


「……ああ。俺も、青葉にちゃんと答えたくて」


しばらく沈黙が流れる。


風が強まり、雲の切れ間から、わずかに陽が差し込んだ。


「若葉とは、昨日、ちゃんと話したんだ」


「うん、聞いたよ。……若葉の顔見たら、わかった」


「俺は、どっちのことも大切に思ってる。けど、同じ“好き”じゃないんだと思う」


青葉は目を伏せた。


「若葉のことは……家族みたいに思ってた。ずっと一緒にいたし、

あいつの明るさに何度も救われてきた。でも――」


「でも?」


「……青葉のことは、見てるとドキッとする。話すたびに、何かを知りたくなる。

手を伸ばしたくなる。……それが、恋なんだと思った」


青葉が、ゆっくりと顔を上げた。

目元が、ほんのり赤くなっていた。


「それって、告白?」


「……そうだな。俺は、青葉のことが――好きだ」


青葉の目に、涙が浮かぶ。そして、ぽろりと一滴だけ頬を伝った。


「……ありがとう。ずっと、聞きたかった」


「ごめんな。遅くなって」


「ううん、嬉しいよ。すごく……嬉しい」


ふたりの距離が、少しだけ近づいた気がした。


青葉は涙を拭いながら、ふわっと笑った。


「じゃあ、これからは“天使”じゃなくても、いい?」


「もちろん」


「そっか。じゃあ、初めてのわがまま、言ってもいい?」


「うん、なんでも」


「今度、ふたりきりで絵を描いてほしい。

私を、ちゃんと“素の私”として描いてほしいな」


「……任せとけ。全力で描くよ」


その約束を交わしたとき、ようやく心のどこかで止まっていた時計が動き出した気がした。


***


その日の帰り道。


若葉には、まだ何も伝えていない。


でも、伝えなきゃいけないことがある。


帰りの廊下で、ひょっこり顔を出した若葉に出くわした。


「お、やっと来たね。今日も屋上でしょー?」


「……今日は、違う」


「……そっか」


若葉の笑顔が、少しだけ揺らいだ気がした。


「話、したい。時間、くれるか?」


「……うん。覚悟はできてるから」


若葉は強がりな笑顔を浮かべたまま、俺と並んで歩き出した。


屋上じゃない。どこでもない場所で。


“決断”のときが、ゆっくりと近づいていた。


そして、俺たちの関係も、きっと新しい形へと変わっていくのだろう。

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