第6話 天使の涙と、悪魔の本音
放課後の教室に、最後の笑い声が消える。
篠崎と真白が帰った後の静けさは、まるで誰かの秘密を預かるかのように、
ひっそりと教室を包んでいた。
俺はカバンを肩に掛け、椅子から立ち上がる。
そのときだった。
「雅、ちょっといい?」
振り返ると、青葉が教室の入り口に立っていた。
俺と違うクラスだから、わざわざここまで来てくれたらしい。
「どうした、わざわざ」
「えっと……ちょっとだけ、話したいことがあって」
その目は、どこか不安げだった。
「……わかった。屋上、行くか?」
「ううん、今日は……こっちで」
そう言って青葉は、まだ日が差し込む廊下の端を指差す。
俺たちは、誰もいない廊下のベンチに並んで腰を下ろした。
しばらく沈黙が続いたあと、青葉がぽつりと口を開いた。
「ねえ、雅……私、ちゃんと笑えてるかな?」
「……どうした、いきなり」
「昨日、若葉と話したでしょ? あのあと、自分のこと考えたら
……なんか、怖くなっちゃって」
青葉の声が、いつもよりもずっと細く感じた。
「私はさ、“天使みたい”ってよく言われるの。優しいとか、穏やかとか……でも、
それって全部、誰かが勝手に決めたイメージで」
「青葉……」
「本当は、泣きたいときも怒りたいときもあるのに、
みんなが期待する“青葉像”に応えようとしちゃって……」
彼女の肩が、小さく震えていた。
「……誰かに、ちゃんと見てほしかったんだと思う。私の“素”を」
俺は、ゆっくりとうなずいた。
「見てるよ。俺はずっと、青葉のこと見てる」
「……ありがとう、雅」
そのとき、彼女の目元に一滴の涙がこぼれた。
驚いて何か言おうとしたけど、青葉はすぐに笑ってごまかす。
「ごめん、なんでもない。ちょっと、感情がぐしゃぐしゃになってただけ」
「……泣いていいよ。今だけは、ちゃんと泣いていい」
そう言うと、青葉はようやく素直にうなずき、俺の肩に額を預けた。
「……ありがと」
その小さな声が、春の風に溶けていった。
***
その日の夜。
俺はまた、スケッチブックを開いていた。
青葉の泣き顔を、どうしても忘れられなかった。
「いつも強がってるのは、青葉だけじゃない……か」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
若葉も、あの日「今のあたしを描いて」って言った。
あれもきっと、同じだったんだ。
誰かに、“本当の自分”を見てほしい。
そういう気持ちを、ふたりとも抱えてた。
俺はスケッチブックの空白ページを開く。
手を止めずに、ふたりの表情を重ねていく。
涙をこらえて笑う青葉と、冗談めかして心を隠す若葉。
どちらも、大切な――俺の、幼馴染だった。
(でも、もう“幼馴染”じゃいられないかもしれない)
描き終えたページを見つめながら、俺はそう思った。
次の日、何かが変わってしまう気がしてならなかった。
***
「なあ、篠崎ってさ。……恋愛相談、乗れたりする?」
昼休みの購買前、パンの列を抜けたタイミングで俺が声をかけると、
篠崎はあからさまに目を輝かせた。
「へへっ、やっと来たか、この展開。聞こうじゃないか雅くん。
君の複雑すぎるハーレム事情を!」
「お前、なんで俺の話知ってる風なんだよ」
「いや、だって見ればわかるだろ。あの二人――天使系ポニテと悪魔系アホ毛。
あからさまに、どっちも雅のこと好きだろ」
「……お前、名前ちゃんと覚える気ないのか?」
「気持ちで覚えてるからセーフ」
隣では、彼の彼女・真白が呆れ顔でサンドイッチをもぐもぐしている。
「雄、茶化してないで、ちゃんと聞いてあげなよ。雅くん、顔マジだよ」
「おっけーおっけー。じゃ、聞こう。どっちかに告白された? それとも、
どっちかが泣いた?」
「……後者。青葉が、昨日ちょっと泣いててさ」
「はっはあ、ついに来たか。涙は感情の出口だからな!」
「ポエマー気取るな。……で、聞いてほしいのはさ。
俺、どうすりゃいいんだろうなって」
俺は、昨日あったことを簡単に話す。屋上での青葉の涙。
若葉の「冗談っぽい告白」。そして、自分がまだ何も答えを出せていないこと。
篠崎は、しばらく考えてから真顔になった。
「選ぶことを怖がるのはわかる。でもな、選ばないってのは、
結局どっちも傷つけることになるんだよ」
「……そう、だよな」
「お前、どっちが好きなんだ?」
「それが、わかんないんだよ」
篠崎は俺の肩を叩いた。
「なら、どっちかとちゃんと向き合え。“好き”って言葉が出てこなくてもいい。
“向き合う覚悟”があれば、何かが見えてくるかもしれないからさ」
俺は、その言葉を胸に刻んだ。
***
放課後。教室の窓から見える空が、いつもより深い色をしていた。
今日は、屋上に誰も呼ばれていない。青葉も若葉も、今日は姿を見せていない。
俺は、自然と足が屋上へ向いていた。
ガチャ、と開いた扉の向こう。風に揺れる制服のスカートと、
金網にもたれる若葉の後ろ姿があった。
「……なんで、いるんだよ」
「うわ、びっくりした。来ないと思ってたのに」
若葉は振り返り、少しだけ微笑んだ。
「なんとなく、ここにいれば雅が来る気がしたの」
「……なんとなくで来る場所じゃねーだろ、屋上って」
「ふふ、でも合ってたでしょ?」
俺は横に並んで金網にもたれた。
しばらくの沈黙。
風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
「……若葉。昨日、青葉が泣いてた」
「……知ってる。顔見たら、わかるよ」
「お前さ、なんであんなこと言ったんだ。“冗談っぽく告白する”って」
若葉は目を伏せた。
「だって、本気で言ったら……雅、困るでしょ?」
「……どうして」
「だって、青葉のこと、好きなんでしょ?」
「……わかんねえよ、そんなの」
「そっか……」
若葉は、一歩前に出て、金網の向こうの空を見つめた。
「でもさ。あたしね、本気で好きなんだよ。雅のこと」
「……」
「ずっと、昔から。雅が絵を描いてるときの横顔も、
真剣に誰かの話を聞いてるときの目も、あたしはずっと見てたの」
「若葉……」
「でもね、雅が青葉を見るときの顔も、あたし見てた。
……すっごく、やさしい顔してたよ」
俺は言葉を失った。
「だから、ずっと我慢してたんだ。冗談みたいにして、気持ちごと笑い飛ばして」
若葉が振り返る。その目に、うっすら涙が浮かんでいた。
「でも、もう無理かも」
その言葉は、まるで限界を超えた心の音だった。
「……ごめん、俺」
「ううん、謝らないで。雅のせいじゃないから」
「それでも、俺は……ちゃんと向き合いたいって思ってる」
「うん。ありがとう」
若葉の涙が、頬を伝う。
でも、その顔はどこかスッキリしていた。
俺はポケットからハンカチを出して差し出す。
「……なんでこんなの持ってるの?」
「いつか、お前が泣く日が来ると思ってたから」
「バカ……」
若葉は涙を拭いて、ようやく微笑んだ。
***
その夜。
スケッチブックの最後のページに、俺は初めて“誰も描かない”ページを残した。
それは、答えのない時間と、想いの整理がつかない心の余白。
でも、その空白が、俺にとって大切な時間だった。
次回からは、きっともう、誰かの気持ちをごまかせない。
俺は決めた。
向き合う。
青葉とも、若葉とも――そして、自分の気持ちとも。
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