第8話  決断

――春の終わり、風はやさしかった。


校舎の屋上ではなく、今日は中庭のベンチ。いつか若葉とふざけあった場所だった。


その同じ場所に、今――俺は、若葉と並んで座っていた。


「……聞かせてくれるんでしょ、雅の“答え”」


若葉の声は、風に混じってやけに遠く聞こえた。


彼女はもう笑っていない。おどけてもいない。俺の目をまっすぐに見ていた。


「……ああ」


俺は息を吐いて、少し空を見上げた。


曇りでも晴れでもない。春の空は、どこか迷っているような顔をしていた。


「若葉、ありがとう」


「お礼からってことは……ふられるフラグかな?」


「……ごめん」


言葉にした瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。


けど、逃げなかった。これは、逃げちゃいけない言葉だった。


「俺は……青葉のことを選んだ」


沈黙が、流れる。


若葉はしばらく黙ったまま、ふっと笑った。


「そっか」


「……怒っていい。泣いてもいい。なんなら殴っても」


「バカだな、雅は。そんなこと、できるわけないじゃん」


目尻が、ほんの少しだけ赤くなっていた。


「泣かないって決めてたの。だけどさ、やっぱりちょっとだけ、涙は出ちゃうんだね」


その言葉に、俺の心も少し泣いていた。


「でもさ、ありがとう。ちゃんと向き合ってくれて」


若葉は立ち上がって、制服のスカートを払う。


「で? これからは、どんな顔して雅のこと見ればいいのかな」


「……無理に笑わなくていい。けど、変わらず“若葉”でいてほしい」


「無理じゃないよ」


若葉は空を見上げて、強がりでもなんでもない笑顔を見せた。


「だって、幼馴染でしょ? 一度振られたくらいで、嫌いになるわけないし」


「若葉……」


「ただし! 次に彼女と一緒に来たら、絶対からかってやるからね」


「そ、それは勘弁してくれ……」


「ふふっ」


若葉は、いつもの調子に戻った。ほんの少し涙の跡を残したままで。


「じゃ、これで幼馴染として再スタートってことで。……バイバイ、私の恋」


そう言って、彼女はその場を離れた。


でも、背中を向けたまま、手を軽く振っていた。


俺はしばらくその姿を見送って、それから、空を見上げた。


少しだけ、青くなっていた。


(――ありがとう、若葉)


***


「……で、ちゃんと伝えたの?」


放課後、昇降口で篠崎が言った。


隣では真白がスニーカーを履きながら首をかしげている。


「言ったよ。若葉には、ちゃんと……俺の気持ちを伝えた」


「ふむ。で、修羅場とか地雷とか投石とかは?」


「あるか、そんなもん」


「ちぇっ、青春無罪か。平和かよ」


「平和が一番だよ、雄」


真白がくすくすと笑いながら言う。


「でも、雅くん。ちゃんと選べて、えらいね」


「……選んだというか、自分の気持ちに気づけただけかも」


「それが一番大事なことだと思うなー」


俺は二人に軽く手を振り、校門へ向かって歩き出した。


もう、決めたから。


この道の先で、待っている誰かのところへ向かう。


次は、青葉との約束を果たしに行く。


青葉との約束は、週末の午後だった。


場所は、いつもの屋上じゃない。

町の図書館の裏にある、ひっそりとした公園。

昔、三人でかくれんぼしたことがある小さな芝生の広場だった。


俺が先に到着して、スケッチブックを開いて待っていると――


「待った?」


風に乗って届いたのは、やわらかくてどこか懐かしい声だった。


「いや、今来たところ」


ベンチに腰かけたまま顔を上げると、そこには制服姿の青葉が立っていた。

風に揺れるポニーテール。春の陽射しが、彼女の横顔を優しく照らしていた。


「なんか、いつもより静かだね」


「……うん。たぶん、今日は緊張してるんだと思う」


「俺も」


顔を見合わせて、思わず笑い合う。


こんなふうに自然に笑い合えることが、何より嬉しかった。


「じゃあ、始めよっか。私を――“素の私”として、描いて」


「……ああ」


俺は鉛筆を握り直し、目の前にいる彼女をまっすぐに見つめた。


青葉は、芝生の上に腰を下ろし、制服の裾を整えると、少しだけ恥ずかしそうに俺の方を見た。


「どんな顔してればいい?」


「そのままでいい。……今の青葉が、描きたいんだ」


「そっか……。じゃあ、ちゃんと見ててね」


彼女はそう言って、小さく笑った。


その笑顔は、いつもの“天使の微笑み”じゃなかった。

どこか頼りなげで、でも強くて、確かに“青葉”だった。


鉛筆の先が紙の上を走る。


そのたびに、青葉の横顔が、表情が、少しずつ線として浮かび上がっていく。


「……なあ、青葉」


「ん?」


「高校、もうすぐ終わるな」


「そうだね。あと1年もないもんね」


「それでも、俺たちは――変わっていけるのかな」


「変わるよ。だってもう、変わり始めてる」


青葉はそう言って、膝の上で手をぎゅっと握った。


「昔の私は、誰かに嫌われるのが怖くて、本音を言えなかった。でも、雅と若葉のおかげで、少しずつ自分を出せるようになったの」


「……俺もだよ。自分に自信がなかったけど、お前らのおかげで、ちゃんと“自分”として誰かと向き合えるようになった」


「それはつまり、成長?」


「……たぶん、青春ってやつかもしれない」


「ふふっ、それっぽいこと言うね」


青葉は少し照れたように笑って、頬を赤らめた。


そして、少し真剣な声で言った。


「ねえ、雅。これから先、また不安になることがあったら――私に言ってね」


「青葉こそ、ちゃんと頼ってくれよ」


「うん。……もう隠さない。弱いところも、かっこ悪いところも、ぜんぶ見せる」


「俺も、見せる。青葉には」


ふたりの声は重なって、芝生の上に溶けていった。


俺は最後の線を引いて、鉛筆を置いた。


「……完成だ」


青葉が顔を覗き込む。


「わっ、これ……私?」


「うん。お前の、今の顔だ」


「なんか……照れるけど、すっごく嬉しい」


青葉はページをそっと指でなぞって、目を潤ませた。


「ありがとう、雅。ずっと、こんな日を夢見てた」


「俺も。……青葉のことを、ちゃんと見て、描いて、想ってきた」


「……じゃあ、次は私の番だね」


「え?」


青葉が立ち上がって、真っ直ぐこちらに歩いてきた。


そして――


「雅のこと、ちゃんと“好き”って言わせて。……大好きだよ、雅」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


「俺もだよ、青葉。……大好きだ」


ふたりの距離が、ゼロになった。


春の終わり、少し冷たい風が頬を撫でたけれど、手の温もりが、それ以上にあたたかかった。


***


翌朝。


「雅ぁーっ! 青葉と付き合ったってマジ!?」


教室に入った瞬間、篠崎のバカでかい声が響き渡る。


「声でけーよ!」


「おい真白! 雅がとうとう彼女持ちになったぞ!」


「おめでとう雅くん。……でも、若葉ちゃんにはちゃんと謝った方がいいよ?」


「もちろん……それは、もう済んでる」


「そっか。なら、よかった」


篠崎が俺の肩をバンバン叩く。


「青春ってのは、選んで、悩んで、傷つけて、それでも前に進むことだ!」


「お前にしては珍しく名言だな……」


「メモれよ!」


そんなやり取りをしていると、背後から見慣れた声がした。


「おーい、あたしの出番ないまま終わらせないでよねー!」


振り返ると、若葉が手を振っていた。元気そうで、なによりだった。


「雅、彼女に浮気したら、問答無用で殴るからな?」


「……気をつけます」


「ふふん、これからも“監視”してあげるからね」


そして、その隣にいた青葉が微笑む。


「私も見てるからね。……良い意味で」


「……はい」


こんな日常が、これから続いていくのだと思うと、胸の奥が少しあたたかくなった。


――これが、俺の選んだ“春の終わり”。


ここからまた、季節がめぐるとしても。


もう、迷わずに歩いていける気がする。


いつかまた、空が曇っても。


この気持ちだけは、もう曇らせたりしないから――

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天使と悪魔な幼馴染、どっちも可愛すぎて選べません! あまたらし @Lizzzu

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