第4話 放課後スケッチブックと秘密のポーズ

放課後の教室は、日中の喧騒が嘘のように静かになる。


カーテンの隙間から射す夕陽が、教室の床に柔らかな光と影の模様を落としていた。


「おーい、雅。お先に帰るぞー?」


そう言って手を振るのは、クラスのムードメーカー、篠崎雄(しのざき ゆう)だ。

その隣には、同じくクラスのアイドル的存在、佐伯真白(さえき ましろ)。

いつもぴったり寄り添っている、絵に描いたようなバカップルである。


「はいはい、仲良く帰ってくださいな」


「なんだその冷たい目〜! ま、また明日な!」


「じゃあね、雅くん。また明日〜!」


雄と真白が笑いながら手を振って教室を出ていくと、俺はひとり、残された静寂に包まれる。


(……さて)


カバンにスケッチブックを入れて、俺も立ち上がる。向かう先は、もちろん屋上だ。


***


「おまたせ〜!」


扉を開けた瞬間、春風と一緒に若葉の声が飛び込んできた。


「やっほー、今日もお疲れ〜!」


若葉は金網の前で腕を組み、夕陽に照らされながらドヤ顔を決めていた。


「……また何か企んでる顔だな」


「ちょっと失礼じゃない? あたしはただ、今日も素敵な放課後を演出しようと思っていただけなのに〜」


その口ぶりの軽さに苦笑いしながらも、俺は屋上に足を踏み入れた。


青葉はすでにレジャーシートの上に座っていて、

ノートを開きながら優しい笑顔をこちらに向けてくる。


「こんにちは、雅。今日も来てくれてうれしいよ」


「ま、日課みたいなもんだからな」


「うん。そういうの、なんかいいよね」


淡い微笑みが、春の光に溶け込んでいく。

その自然さが、心地よくて、どこか切ない。


「で、今日は何して遊ぶの? また三人で恋バナとか〜?」


若葉がニヤニヤしながら問いかける。


「違うって。今日は俺が“持ってきたもの”があるんだよ」


「ん? なになに?」


俺はカバンからそっとスケッチブックを取り出した。


「それ、もしかして……絵?」と青葉。


「そう。美術の宿題で“人物スケッチ”ってのがあってさ。

家だと集中できないから、ここで描こうと思って」


「へえ、意外と真面目なんだね〜。じゃあモデルが必要じゃん!」


「……まあ、そうなんだけど」


俺がためらいがちに答えると、若葉は勢いよく手を挙げた。


「はいはーい! 立候補しまーす! モデル若葉、参上っ!」


「ノリ良すぎだろ……」


「だってさ、こんなに可愛いんだよ? 描いてもらわなきゃ損でしょ〜?」


「自分で言うなよ……でも、助かる」


若葉は胸を張って笑うと、金網の前に立ちポーズを決めた。


「じゃーん、どう? “放課後の悪魔ポーズ”!」


「どんなポーズだよ、それ」


「いいから描いてみてよ〜、ほらほら!」


その横で青葉がくすくすと笑っている。


「ふふ、若葉らしいね。……でも、私もちょっとだけ興味あるかも」


「え、青葉も描いてほしいの?」


「うん。恥ずかしいけど……雅の絵、見てみたいなって」


その声が、風に乗って俺の胸を優しく叩いた。


(……よし)


「じゃあ、二人とも順番にお願い。若葉からいくか」


「やったー! さあ、存分に描いてくれたまえ!」


俺はスケッチブックを開き、鉛筆を走らせる。


風の音、夕焼けの色、彼女たちの笑顔――すべてがスケッチブックに刻まれていく。


***


モデルを終えた若葉が、後ろから俺の肩越しにスケッチブックを覗き込んだ。


「おおー、なにこれ、めっちゃ上手いじゃん! てか、可愛く描きすぎじゃない?」


「いや、なるべく忠実に描いたつもりなんだけど……」


「うわー照れる〜! ねえ青葉、あたしってこんなに可愛い?」


「……うん、ちゃんと若葉に見えるよ」


「なんかトゲある!? まあいいや、じゃあ次は青葉の番だね!」


青葉は少しだけ恥ずかしそうに立ち上がると、そっと前に出てきた。


「えっと……じゃあ、この辺で」


彼女はレジャーシートのそばに立ち、スカートの裾を直しながら微笑む。


「……大丈夫? 無理してない?」


「うん、平気。雅に見てもらうの、ちょっと緊張するけど」


その言葉に、俺の指先が一瞬だけ止まりかけた。


でも――描こう。今の青葉を。


青葉は、まっすぐに立っていた。


柔らかな風が、彼女の髪をそっとなでる。スカートの裾がふわりと揺れ、

夕陽の光に照らされたその姿は、まるで風景の一部みたいだった。


「……じゃあ、描くよ」


「うん。……よろしくお願いします、雅先生」


そう言って少しだけおどけてみせる青葉の表情は、

いつもよりほんの少しだけ照れているように見えた。


俺は、そっと鉛筆を走らせた。


まずは輪郭、髪の流れ、リボンの形、そして――目。


彼女の目には、柔らかさと、どこか儚さが混ざっている。

それを上手く捉えられるかどうかが、たぶんすべてだった。


描きながら、青葉との思い出が少しずつよみがえる。


幼い頃、一緒に空き地で花冠を編んだこと。

小学校の運動会で、応援団をやっていた青葉の笑顔。

風邪で寝込んだ俺に、何も言わずプリントを届けてくれた日のこと。


(……変わってないな)


彼女はずっと、変わらずにそこにいてくれた。


だけど、俺の中では確かに何かが――変わり始めている。


「はい、できた」


描き終えたスケッチブックを、そっと青葉に見せる。


「……わ、わたし、こんな感じ?」


「うん。ちょっと照れてるとこも描きたかったから」


「そっか……なんか、恥ずかしいけど……うれしい」


青葉はスケッチブックを抱きしめるように持ち、ふわっと微笑んだ。


「ほんとに、ありがとう。宝物にするね」


「いや、そんな大袈裟なもんじゃないって」


「ううん。……雅が見てくれてるって、思えたから」


その言葉に、どきりとした。


彼女の瞳が、まっすぐに俺を見ていた。普段はあまり自己主張をしない青葉が、

こんなふうに気持ちを伝えてくるのは珍しい。


「……あたしも、描いてほしいな」


そう言ったのは、さっきまではしゃいでいた若葉だった。


「もう描いたじゃん、さっき」


「違うの。……今の、あたしを描いてよ」


「今の……?」


「うん。なんかさっき、青葉のスケッチ見て思ったんだよね。

雅って、ちゃんと見てくれてるんだなって」


「……そりゃ、幼馴染だからな」


「でも、あたしはどうなんだろうって、ちょっと思っちゃった」


珍しく弱気な口調の若葉に、俺は少し驚いた。


「だから、描いて。今の“あたし”を、ちゃんと見てさ」


「……わかった」


俺はもう一度スケッチブックを開き、鉛筆を手にした。


若葉は、さっきと違ってまっすぐ立っていない。

腕を組み、少しだけ眉を寄せて、でも、目だけはじっと俺を見ていた。


描くたびに思う。若葉は強がりだ。


明るくて、元気で、誰にでもフレンドリーだけど――その奥に、何かを隠している。


(……もしかして、最初から気づいてたのかもしれない)


スケッチブックに浮かび上がっていくのは、“悪魔”の仮面をつけた少女の、

ほんの一瞬だけ素顔をのぞかせた横顔だった。


「はい、できた」


俺が差し出すと、若葉はそっと覗き込む。


「……うわ。なにこれ。……ずるいくらい、見透かされてる」


「そりゃ、見てるからな。ずっと」


「……そっか」


若葉は、それ以上何も言わず、スケッチブックを眺め続けた。


沈黙が、優しく流れる。


だけどその静けさは、決して気まずさじゃない。

むしろ、今まででいちばん“素直”な時間だった気がした。


***


それから少しして、陽が落ちるのが早くなってきたのに気づく。


「そろそろ帰らなきゃね」


青葉がそう言い、レジャーシートをたたみ始めた。


「うん。また明日、だな」


俺がそう言うと、若葉もこくりと頷く。


「明日も、描いてくれる?」


「……気が向いたらな」


「それ、絶対描いてくれるやつだ〜」


冗談めかして笑い合いながら、三人で屋上を後にした。


階段を下りながら、俺は思う。


(俺たちの関係って、どこまでいっても“幼馴染”のままなのか)


(それとも――)


胸の奥で、答えのない問いが、またひとつ、芽を出していた。


***


その夜。


俺は部屋の明かりを落として、スケッチブックを開いた。


今日描いたふたりの顔を見つめながら、何度もページをめくる。


どれも、俺が“見てきた”彼女たちだ。


でも――


「見ているようで、見えてないものも、あるんだよな……」


独り言みたいに呟いて、スケッチブックを閉じた。


窓の外では、春の風が静かに吹いていた。


俺の背中を押すように。


そして、どこか遠くへ連れていこうとするように。


(このままじゃ、きっと――何かが変わってしまう)


だけど、変わるのは怖いことじゃない。


大切なのは、ちゃんと“見つめる”こと。


俺が、誰を、どう見ているのか。


彼女たちが、何を見てほしいのか。


きっとそれが、この三角関係のはじまりなんだろう。


そして――終わりの、予感でもあるのかもしれない。


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