第3話 悪魔のささやきと、天使の距離感

放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気がゆるみ、

あちこちで椅子の音や話し声が沸き起こる。


俺は数学のノートを閉じると、机に突っ伏してため息をついた。


(……だるい)


今日の授業はやけに長く感じた。というより、集中力が切れてた。


「はいはい、雅〜」


そんな俺の頭上から、甘ったるい声が降ってくる。


「今日も屋上ね? 拒否権なしで!」


顔を上げると、そこには若葉が得意げに立っていた。

相変わらず、俺の気分なんてお構いなしのテンションだ。


「もうちょっと休ませろよ……」


「ダメ。青春に休みなんてないのだよ!」


「どこの漫画だよ、それ」


「うーん、『今この瞬間が宝物』って感じ?」


ふざけてるようで、ちょっと本気なのがこの子のめんどくさいところだ。


俺はしぶしぶ立ち上がり、カバンを肩にかけた。


「……青葉は?」


「先に行ってるよ。さっき、教室から出てくの見たから」


青葉とはクラスが違う。だから、放課後に合流するには若葉の情報が頼りだ。


「はいはい、行こ行こ〜。今日も“天使と悪魔の昼下がり”って感じでさ!」


「なにそのセンス……」


「タイトル風! どう? 第3話っぽいでしょ?」


「妙にメタなこと言うなよ」


笑いながら、俺たちは三階の非常扉へと向かった。


***


屋上のドアは相変わらず、壊れたままの鍵に守られている

……というか、守られてない。押せば簡単に開く。


扉を開けると、春の風が顔を撫でた。夕陽が少しだけ傾きかけた空を、

やわらかなオレンジ色に染めている。


「やっほ〜、来た来た!」


レジャーシートの上で手を振っているのは青葉。

相変わらず制服のリボンがきっちり整っていて、隣の悪魔系と対照的だ。


「遅いよ、雅。待ちくたびれちゃった」


「悪い、若葉が途中で『おやつ買ってく〜』とか言い出してな」


「だってさ、今日は“屋上スイーツ会”にしようと思って」


「いつからそんな名前に……」


三人で座り、いつものように軽口を交わしながら、

買ってきたパンやお菓子を広げる。


ほんの些細な時間。でも、いつも楽しい。


***


「はい、これ」


青葉が取り出したのは、可愛い包装の手作りクッキーだった。


「すげー。これ、自分で作ったの?」


「うん。昨日の夜、思い立って。雅が甘いの好きだったかなって思って」


「……ああ。覚えててくれたのか」


俺がそう言うと、青葉はちょっとだけ照れたように微笑む。


その様子を見ていた若葉が、ふいに口をとがらせた。


「なんだなんだ〜? 二人の空気、ちょっと甘すぎじゃない?」


「そうか?」


「ぜっっったい、気づいてないだけだって! ほら、青葉も何か言ってやってよ〜」


「えっ? わ、私は別に……」


青葉がうつむき、髪を耳にかけながら笑う。でもその笑顔は、どこか曇って見えた。


「……最近、話す時間がちょっと減ったなって思ってただけ。

気のせいかもしれないけど」


「そりゃ、クラス違うからな」


「うん、わかってる。けど……屋上だけは、ずっと変わらずに

いられたらいいなって」


「……ああ」


俺は青葉の目を見て、静かにうなずいた。


そのとき――


「はーい、話題転換! ここで“悪魔からのささやきタイム”入りますっ!」


若葉が唐突に立ち上がり、俺の前にぬっと顔を近づけてきた。


「ねぇ、雅。あたしが本気で告白したら、どうする?」


「……は?」


「“は?”じゃないってば。ほら、考えてみてよ。もしも、もしも、よ?

この若葉様が、本気で好きになっちゃったら〜?」


「……それ、冗談だろ」


「さあ、どうかな〜?」


にやにや笑う若葉。いつもと同じはずなのに、どこか声のトーンが違って聞こえた。


「ちょっと、若葉……」


青葉が制止しようとするも、若葉は軽く手を振った。


「大丈夫だって。冗談だからさ、ね?」


冗談――だけど、今のは“本気”の色が、少しだけ混ざっていたように思えた。


***


その後も他愛のない話は続いたけど、俺の心には、

さっきの言葉がずっと残っていた。


夕焼け空の下、三人で並んで座っていても、どこか“少しだけ違う景色”に感じるのは――俺が変わり始めてるから、なのかもしれない。


***


屋上の風が、すこしだけ冷たくなってきた。


夕陽はさらに傾き、空の色はオレンジから群青へと変わりつつある。

屋上に広がる静けさと、その風景に、俺はぼんやりと目を向けていた。


だけど、胸の中はざわついている。


若葉の「もしも、本気で好きになったら?」という問い。


そして、それに笑って誤魔化したようでいて、どこかぎこちなかった青葉の反応。


(なんだろう、これ)


モヤモヤとした違和感が、胸に残ったまま離れない。


「雅、寒くない?」


青葉が隣から声をかけてきた。


「あ、いや……大丈夫」


「なら、よかった」


ふわっとした微笑み。でもやっぱり、さっきから彼女の笑顔には、

どこか無理をしているような影があった。


「……ねぇ」


と、今度は若葉が呟いた。


「もしさ。もしもよ? このまま三人で、毎日屋上でこうやって過ごすのが

当たり前になったとして……でも、どっかのタイミングで

“ふたりきり”になる日が増えたら、どう思う?」


「……え?」


「たとえば。青葉と雅、ふたりで屋上に来る日が続いたら。

あたしは用事があるとかで抜けてさ。そういうのが何日も続いたら

……あたし、どう思うと思う?」


不意に刺すような質問だった。


冗談っぽく笑っているのに、瞳の奥だけがまっすぐで、嘘がなかった。


「……若葉」


青葉が口を開こうとしたけど、若葉はそれを制して、ゆっくりとレジャーシートから立ち上がった。


「……ちょっと風が冷たくなってきた。先、帰るね」


「えっ……ちょ、待てよ」


「大丈夫、ほんとに用事あるだけ。……じゃ、また明日」


若葉は笑顔を浮かべたまま、屋上をあとにした。


けれど、その背中はほんの少しだけ――寂しそうに見えた。


***


「……ごめんね」


ぽつりと、青葉が言った。


「え?」


「さっきの、若葉。あれ、私のせいかもって思っちゃって……」


「いや、そんなこと……」


「最近ね、雅とちゃんと話せてる時間って、この屋上くらいしかないから。

だから、ちょっと嬉しくて……でも、それが若葉を置いてけぼりにしてるように

見えたのかも」


「……青葉」


「ごめんね、変なこと言って」


彼女の声は小さく、風にかき消されそうだった。


そんな繊細な言葉の端々に、俺はまたドキリとする。


(こんな気持ち、いつからだ?)


青葉は、昔から俺の“癒し”だった。言葉数は多くないけど、常に柔らかくて、

優しい。


若葉は、昔から“騒がしい嵐”だった。何でも強引で、

勢いだけで突っ込んでくるタイプ。


だけど、どっちがいいかなんて、そんな単純な話じゃない。


俺は――どうしたいんだ?


「……なあ、青葉」


「うん?」


「俺、最近よく考えるんだ。俺たち、三人って……なんなんだろうなって」


「……幼馴染、だよね」


「うん。でも、それだけじゃ説明できないようなことが、増えてきた気がする」


青葉は一瞬だけ黙って、それから微笑んだ。


「私も、そう思ってた」


その言葉を聞いて、俺の心臓がトクンと跳ねた。


「このまま、何も変わらなければいいなって、思ってた。でも

……何かが、少しずつ変わっていってるのかもしれないね」


「……ああ」


俺たちはしばらく黙って、夕空を見上げた。


時間が止まったみたいな、そんな不思議な静けさだった。


***


「そろそろ、戻ろっか」


青葉の言葉に、俺はうなずいた。


二人でレジャーシートをたたみ、カバンを持って屋上を後にする。


階段を下りながら、俺はもう一度、青葉に問いかけた。


「……また、明日も来てくれる?」


「うん。明日も、明後日も、その先も」


青葉はまっすぐ俺を見て、そう言った。


その瞳の奥に、ほんの少しだけ強い光が見えた気がした。


***


翌朝。


俺は若葉と並んで、いつものように登校していた。


「ねえねえ、今日さー、購買で新しいパン出るんだって!

絶対早めに並ばなきゃ!」


「朝からテンション高いな……」


「パンに命かけてるんで〜!」


いつものやり取り。


だけど、今日の若葉はどこか無理してるようにも見えた。


そのテンションの裏に、まだ昨日の“ささやき”が残ってるのかもしれない。


(……本気で告白されたら、どうする?)


俺は、まだ答えを出せていない。


でも――


屋上での時間。


三人で交わす何気ない言葉。


その一つ一つが、今はなぜか、とても大切に思える。


だからこそ、壊したくない。


でも、何も変わらないままでは、いられない気もしていた。


「……ふたりきりになったら、どう思う?」


若葉の問いが、心に残っている。


それはもしかすると、誰かが“選ばれる日”が来ることを、

もう予感しているのかもしれない。


***


次の放課後、屋上への階段を登りながら、俺は決めた。


「……今日は、ちゃんと向き合おう」


誰に、というわけじゃない。


でも、何かが動き出した予感がしていた。


青葉と若葉。


“天使”と“悪魔”。


どちらも、俺の特別だ。


けれど、いつまでも曖昧なままではいられない。


この日常の先に、きっと“答え”が待っている。


それが、どんな形であっても――


俺は、逃げずに進んでいこうと思った。


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