042話_山鹿の赤ワイン煮と干し麦のア・ラ・ルヴァン

ザイロンとクレセリアがメインディッシュに目を見張っていた頃──



激戦を終えたマルチェロの部屋には、静けさと淡い香りが満ちていた。


その空気は、まるで戦の後の野営地。

油と煙と香草の残り香が漂うその空間で、

セリアはソファに沈み込み、ついに力尽きたように呟いた。


「……つっ……疲れた……」

そんな、消え入りそうな声。

長い長い戦いが終わった後の、一言だった。


体を投げ出すようにソファの背もたれに倒れ込み、

視線だけを動かして竈のほうを見ると──ジョーがいた。


火加減を見ながら、デセールの生地を丁寧にかまどへと滑り込ませている。

ジョーが一番疲れているはずなのに、相変わらず、無駄のない手付き。

ただ黙々と仕上げの工程に集中している姿を眺めつつ、

セリアは心の中で深いため息をついた。

(……あぁ、やっと、終わったんだな……)


オードブルを作り終え、スープの提供を挟んで、すぐにメインの仕込み。

休む暇もなく今度はデセールの準備。

その合間に、ジョーがスープの最終調整をしながらセリアが根菜の下ごしらえをし、逆にジョーがメインの仕上げをしている間に、セリアがチーズやフルーツを刻んで──


めまぐるしい時間の中、ようやく…ようやく訪れた一息。

ジョーの 「後は俺がやっとくよ」の言葉に背中を押され、

セリアは二日ぶりに体を横にすることが出来たのだった。


「ふうー……」

深呼吸をしながら大きく伸びをし、首をゴキゴキと鳴らす。

意識がぼんやりと霞むその時、テーブルにふわりと香ばしい匂いが漂った。


「…ん……?これは……」

眠たげな目を擦りながら体を起こすと、目の前には見慣れぬ皿が一つ。


「はい、お疲れ様ー。こちらメインになります。」

ジョーが淡々とした声で言う。


(そういえば…メインディッシュが何なのか詳しく聞いてなかったな…)

あまりに目まぐるしく調理を手伝っていた為、

メインディッシュにも手を付けてはいたが、

その料理名を聞いていなかった事にセリアは気付いた。


「こちら、《山鹿やましかの赤ワイン煮と干し麦のア・ラ・ルヴァン》

 ──焦がし根菜とラズベリー・ソースを添えて──、になります。」

そう言って、静かに口元だけ微笑むジョー。


まるで料理に引き寄せられるように、セリアはまじまじと皿を見つめた。

やや深めの陶器皿とうきざらに盛られた柔らかな赤褐色せきかっしょくの煮込み肉。

その周囲には、トロリとつやをたたえたソースが軽く一筋。

添えられた根菜は香ばしく焼き色が付き、麦の粒が淡く香るかんばしき蒸気を立てていた。


見るからに美味しそうな料理…しかし──

「……あれ、これって……?」


見覚えのある構成、懐かしい香り。

「なんだか…先日私達が食べた《鹿肉と干し麦の煮込み》に……似てるよな?」


ふと出てきたセリアの疑問に、ジョーはこくりと頷いた。

「うん。俺なりに作ってみた…鹿肉として、ルヴァン北部に生息する山鹿を使用してる。山鹿の肉は、事前に赤ワインと香草でマリネしてから煮込み、干し麦は軽くって香ばしさを加え、煮汁で一緒に炊いてみた…って感じかな。」


セリアは、ジョーの説明を聞いているだけで

唾液が口からあふれ出そうになり、思わず唾を飲み込んだ。


「焦がし根菜には黄カブ、ルヴァン人参を使って、甘みと苦味のバランスを出して…ソースはラズベリーをベースに、スグリや赤果実を数種混ぜて、肉の濃厚さを引き立てるように仕上げてみたよ。」


そして、まるでレストランの給仕のように、わずかに頭を下げた。


「──どうぞ、お召し上がりください。」

そう言って、再び竈へと向き直り、デセールの様子を見に戻っていく。


「……じゃあ……!」

セリアは思わず喉を鳴らしながら、スプーンを手に取る。

香りを吸い込み、一口分だけを口に運ぶ。


──次の瞬間、眠気が吹き飛んだかのように瞳が見開かれた。


ジョーの料理を食べるたびに驚かされるが、

今回の料理は今まで以上の衝撃であった。


脂の乗った、柔らかな山鹿の肉。

赤ワインの酸味と甘味がじっくりと煮込まれた肉に染み渡り、脂の香ばしさと絶妙に調和している。

さらに、干し麦は事前に軽く炒めたおかげで程よく香ばしく、

その干し麦が肉汁をたっぷりと吸って、噛み締めるたびに旨味が滲み出てきた。


添えられた焦がし根菜も、

黄カブや人参がカリっとロースト上に仕上がって

とても野菜とは思えないほどホクホクで食べ応えのある仕上がりだった。


そしてラズベリー・ソース──

ラズベリーだけでない、スグリ系の果実もいくつか入れたからこそ、

単純な甘さではない、甘さと微かな酸味が全体に彩りと味の変化を加えていた。


「……うめぇ!!」

大声を上げながら、スプーンが止まらない。

次の一口、また一口と、セリアは夢中で料理を平らげていく。


「お、お父さんにも一口──」

近くから手を伸ばしてきたバルトの声が聞こえた瞬間、

セリアは即座に手を叩き落とした。


「働かざる者、食うべからず!一つも渡さん!!」

バルトが大げさに手を振ってのけぞるのを、セリアは呆れた顔で眺める。

だが、その表情には柔らかい笑みが宿っていた。


──平和な、ひととき。


スプーンを動かしながら、セリアはふと、竈を見つめるジョーに声をかけた。


「なあ、なんでこれ作ったんだ?他の料理みたいに、

 もっと“異界っぽいメニュー”にすりゃあよかったんじゃねぇの?」


ジョーは火の中を見つめたまま、少し間を置いて答えた。

「うーん…セリアに食べて欲しかったから?」


「え……?」

セリアは、その言葉に思わず食べる手を止め固まった。

ジョーはゆっくりと言葉を選ぶように、続けた。

「まぁ…色々とお礼。街案内してくれたり、調理手伝ってくれたり……あと──」


ジョーは次の言葉を考えているようで、スムーズに言葉が続かない様子だった。


そんなジョーの様子に、セリアはもどかしそうに身を乗り出した。

「あと…なんだよ?」


しばらくして、ジョーは竈の中を見つめたまま、ぼそりと呟いた。

「……セリアに、この料理を食べて……喜んでほしかった、から?」


いつも通りの無表情な顔で、何でもないように答えるジョー。

しかしそれは、自信のない問いのような、ひどく素朴な願いのような言葉だった。

一瞬、セリアは豆鉄砲を食らったかのように目を見開きながら驚く。


──けれど、次の瞬間には。

「……っはは、なんだよそれ……」


ぽつりと笑みを零し、そっと顔を背けながら、赤くなった頬を隠す。

「ったく……嫌になるほど素直なんだから……」


そして──


「ああ……美味い、本当に美味しいよ、ジョーの料理は……」


セリアはそう呟きながら、

最後の一口まで、大切に味わい尽くすのだった。

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