038話_フェンリルの心臓風・赤葡萄のジュレ包み

目の前に置かれた皿は、奇妙な沈黙を呼び込んでいた。


漆黒の陶器とうきの中央に、宝石のような紅玉こうぎょく色の球体がひと粒。

透き通るような赤葡萄あかぶどうのジュレの中にうっすらと浮かび上がるのは、

まるで“心臓”のような赤身肉の断片だった。


「……すまない、もう一度料理の名前を聞いて良いだろうか?」


兄ザイロンが、冷ややかな声音こわいろで呟いた。

だがその声音の奥に、わずかに困惑の気配が混じっているのを、クレセリアは聞き逃さなかった。


(ザイロン兄様が戸惑いを隠しきれていない……それほどまでに、この料理は異質なのね。)


その疑問に応えたのは、無言で佇んでいたマルチェロだった。

彼は一歩前に出て、恭しく頭を下げると、丁寧ながらも静かに説明を始めた。

「こちらは、《フェンリルの心臓風・赤葡萄あかぶどうのジュレ包み》にございます。ミンチ状にした赤角獣スカーレットホーンもも肉を中心に、赤葡萄のジュレで包み、香草塩ハーブソルト古酒こしゅのワインビネガーで香り付けをしたアミューズ・ブーシュ…食前のひと口料理でございます。」


その説明に、ザイロンが片眉を上げる。

表情は変わらぬまま、鋭い灰色の瞳だけがわずかに光を帯びる。


「……、だと?」

マルチェロは落ち着いた動作で頷いた。

「ええ。フェンリルの心臓を模した構成とのこと。中心に肉の力強さ、周囲に葡萄の甘酸かんさんまとわせ、“野生と理性の交差”を一口に込めた…と、料理人は申しておりました。」


確か…フェンリルとはアルヴェール教国周辺の雪国で伝わる神獣の一匹だったはず。

その神獣の心臓…と聞けば、見た目も相まって貴重な食材に見える。


しかし、実際は赤角獣スカーレットホーン──

馬に赤い角が付いたような見た目の魔物であり、多少気性は荒いが討伐は容易たやすい。

ルヴァン王国では、戦時中の現在も一般的に流通している魔物の食材であった。


クレセリアは改めて目の前の皿を見つめた。

喉の奥が、ほんの少しだけ鳴る。

説明されたように、確かにこの料理には何かを語りかけてくるような“意味”があった。

心臓──生の源。その奥に潜む意図を、ジョーなら込めていないはずがない。

そうクレセリアが考えていると、ザイロンがさらにマルチェロへ問う。


「他の皿はまだか?まさかこれだけとは言うまいな?」

その物言いには苛立ちこそないが、静かな威圧が宿っていた。

だが、マルチェロはそれに怯むことなく落ち着いた声で答える。

「お料理は一品ずつ、最適な温度と香りでご提供いたします。どうぞ、まずはそちらの料理からお楽しみくださいませ。」


そう言って、マルチェロは静かに一礼すると、再び部屋から出ていった。


再び二人きりになった部屋で、短い沈黙が流れる。


クレセリアは意を決し、フォークを手に取った。

切れ目なく滑らかなジュレをすくい、球体の一部を口に運ぶ。



一瞬、呼吸が止まった。


(……なに、これ……っ)


口の中に広がったのは、理性すらも震わせる“構築された混沌”。

ミンチ状の肉は香草塩ハーブソルトでのみ下味が付けられており、

その淡泊な味わいと噛み応えのある肉質が、

香草塩の風味も相まって野性味あふれる旨味を前面に押し出している。


その旨味と共に口の中でとろけだす赤葡萄のジュレも、

上品かつ甘酸っぱい爽やかさを口の中に残してくれていた。


そして古酒のワインビネガー──このまろやかな酸味が、更に肉の旨味を目立たせつつ、料理全体の味を引き締めていた。


肉の深み、葡萄の果実香かじつこう、香草の余韻、

それらが一斉に広がったかと思えば、すぐに一つの円環えんかんへと収束していく。


混沌の中に秩序があり、暴力の中に静謐せいひつがある…

まるで戦場のような味──と、クレセリアは思った。


喉を通った瞬間、彼女は思わずワインを口に含む。

ビネガーの酸が果実味と絡み合い、さらなる高みへと舌を連れて行く。

(美味しい……なんて次元を超えてる……)


震える唇をそっと抑え、クレセリアは何事もなかったように表情を整える。

その横で、ザイロンも静かにフォークを取り、球体を口に運ぶ。

既に、手の動きにはわずかな慎重さが混じっていた。

まるで、この料理が“ただならぬもの”であることを本能的に察しているような、そんな仕草だった。


数秒の沈黙の後、彼の眉がかすかに動いた。


「……意外だな。赤葡萄は甘すぎず、だが繊細だ。……そして、妙に重い。」


その言葉とともに、ザイロンの視線が皿からクレセリアへと移る。

いや、彼の眼差しはさらにその奥、“この皿の意味”へと突き刺さっていた。


──この料理はルヴァン料理ではない。

否、恐らくこの大陸のどの料理とも異なる……それでいて、あまりに完成されている。


ザイロンは料理を咀嚼そしゃくしながら思考を深める。

(一体誰が、いや──?)


何より、この料理の奇抜な見た目。

美しい造形でありつつも、明らかに何か意味を込めた作りとなっている。

(心臓を喰う──それは、心の内を喰らうということ……。この料理は、クレセリア、お前の心を──)


マルチェロの説明通りならば……この皿は“理性と野性の交差”。


つまり……


(“戦場でも理性は通じる”、そんな意味も……いや、これは……)


この一口で、ザイロンは気づいたのだ。

この料理が、ただの美食でないことに。

構築された意図、隠された思想、そして、この夕食会自体が“舞台”であることに──


沈黙の中、クレセリアはワイングラスを手に取り、わずかに微笑んだ。

(……通じた。あなたにも、彼の料理の力が……)


言葉にはせず、ただ心の奥で静かに呟く。



そして──第二の皿が来るその瞬間を、静かに待つのであった。

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