034話_始まりのワイン

蝋燭の火が揺れる夜、

クレセリアの自室には上質な絨毯が敷かれ、暖かな光と静けさが満ちていた。


部屋の奥には小さな円卓と二脚の椅子が用意され、

その上には白いクロスがかけられ、銀器とガラス器が丁寧に配置されていた。

マルチェロの手配により、夕食の準備は完璧に整えられていた。


クレセリアはその空間にただ一人、

窓辺で腰掛け、手元のグラスに赤ワインを揺らしていた。


(……思えば、ザイロンお兄様と食卓を囲むのは、いったい何年ぶりかしら…?)

遠い記憶が、グラス越しに立ち上るワインの香りとともに胸に蘇る。


10年前——。


まだ幼かった頃、兄妹だとは知らずにザイロン兄様やカイン兄様と遊んだ日々。

離宮に引きこもりがちだった自分にとって、

彼らと過ごした時間は数少ない外との接点だった。

母が存命だった頃、特別な日の夕食にはよく彼らを招いてくれていた。


(……あの頃は、ただ楽しかったな。)

目を細めて微笑むと、扉の向こうからノックの音が響いた。


「クレセリア様、ザイロン様がお越しになりました。」

マルチェロの穏やかな声。

クレセリアはグラスを置き、深く息を吸い込み顔を引き締めた。


「……ありがとう、入れてちょうだい。」


ドアが開き、漆黒と金の刺繍が施された軍服に身を包んだザイロンが姿を現す。

その漆黒の髪と、冷たい灰色の瞳。

無駄のない所作と、どこか芝居がかった気取った礼儀。

「ふん……本日はお招き感謝する。座ってよろしいかな?」

クレセリアは微笑を作った。

「…どうぞ。」


ザイロンは席に着き、そのまま沈黙が流れる。

蝋燭の灯りが、彼の白い横顔をかすかに照らしていた。


(……そういえば、お兄様と世間話せけんばなしなんて……したことあったかしら。)

お互いの正体を知ってからは、お互い王になる為に競い合ってきた。

顔を合わせれば論議を飛ばし、いずれ会話すら減ってしまっていた。


しかし話題を探そうとする間もなく、ザイロンが口を開いた。

「……後方とはいえ、ついに戦場へおもむくようだな。」

クレセリアは眉を上げる。

「えぇ。それが何か?」

ザイロンの冷たい視線がクレセリアを刺す。

「戦場では何が起こるかわからない。敵からすれば、お飾りの女王など格好の的だ。気を抜くな。」

「お気遣い痛み入ります。ですが、お兄様も気を抜かない方がよろしいのでは?」

挑むように睨み返すクレセリア。

そんなクレセリアに対して、ザイロンは乾いた笑みを浮かべた後、溜息をこぼす。

「……私には理解しがたい。なぜそこまで功績を欲しがり、王位に固執する? 王になって何を成すというのだ?」


クレセリアは瞳を伏せてワインに視線を落とす。

「私はただ……お飾りと呼ばれる今の自分を変えたいだけです」

「ハハ……まるで反抗期の子供だな」

「そんなこと……!」

反論しかけた声を、ザイロンが遮る。

「心優しい貴様では、この先の戦乱の世を乗り越えられん。ただ己が心を汚すだけだ。」


見下すようなその言葉に、クレセリアは唇を噛む。

「……では、お兄様には何が見えているのですか? 王として、何を成すおつもりで?」

それは咄嗟の思い付きで出た反論であり質問であったが、

実際、クレセリアは以前から興味があった。


普段から心の内側をさらけ出さないが故に、

ザイロンお兄様から野心や欲望を感じた事が無かった。

そんな人間が、王として何を成すというのか?


興味が湧く部分であり、

それがザイロンお兄様の弱点なのでは、と以前からクレセリアは考えていたのだ。


その時、静かにドアが開き、マルチェロが入ってくる。

「失礼いたします…ザイロン様、ワインをお持ちしました。」


マルチェロが注いだ赤ワインが、グラスの中で静かに波紋を描く。

ザイロンはその赤を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「……成すべきは二つある。」


クレセリアの背筋がぴんと伸びる。


「一つは——。」


グラスに口をつけながら、ザイロンの声が響く。


「そしてもう一つは——この大陸のだ。」



その瞬間、部屋の空気が張り詰める。

クレセリアの目が、静かに、しかし確実に見開かれていた。

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