027話_期待外れの泥水

朝の空気は、いつもより静かに思えた。

鳥のさえずりも、廊下を掃く使用人の足音も、今朝ばかりはやけに遠く感じる。


クレセリアはベッドに腰掛けたまま、ひとつ大きくため息を吐いた。

(……体調がすぐれない、ね。)

自分でついた嘘に、内心で皮肉を返す。


本当は元気そのものだ。けれど、今日ばかりは動いてはいけなかった。

もしも廊下で誰かと鉢合わせでもしたら。

もしも王兄たちの目に触れでもしたら。 


——私は、あの“料理”を受け取ることが難しくなる。


いや、仮に料理を受け取れたとしても、その後の行動で問題が発生してしまうかもしれない。

確実ではないにしても、今回の計画に不安要素はなるべく取り除かなければいけない。

今回のこの計画が、私の人生を大きく変えるかもしれないのだから。


数日後、国王陛下とザイロン兄様、カイン兄様による戦略会議の結論が出る。

その前に、転生者の力を確かめ、味方に引き込むことができれば……私は、“その場”に割って入る資格を得られるかもしれない。


それが今日、この日のすべてだった。



そんな思考に沈んでいたところに、ノックの音が響いた。

「クレセリア様……よろしいでしょうか?」


聴き慣れた、低くて柔らかい。マルチェロの声だった。

「いいわ、入って。」

そう返すと、ゆっくりと扉が開き、燕尾服えんびふくに身を包んだ彼が姿を現した。

手には銀の盆。その上には湯気の立ち上る何かが置かれている。

少し顔色が優れない気がするが、もしかしたら昨日から一睡もしていないのかもしれない。

無理をさせて申し訳ない気持ちはあるが、味方の少ないクレセリアにはマルチェロだけが頼りの綱であった。


クレセリアは目を細めてマルチェロに訊ねる。

「……それが、転生者の料理かしら?」

いつものように、自信に満ち溢れた返事が返ってくると思ってたクレセリアであったが、マルチェロはなぜか視線を逸らし口を開いた。


「えぇ……そうと言えば……そうでございます……」


曖昧な返答。

この男にしては、妙に歯切れが悪い。どこか、やましさを感じさせる態度だった。

クレセリアは不審に思いながらも料理の方に興味が惹かれ、言葉を飲み込んだ。


マルチェロがテーブルへと盆を置く。

彼が息を吐くように、言った。


「《グリフォン腿肉ももにくのブイヨン・ノワール》……との事です。」


クレセリアは静かに皿の中を覗き込んだ。

——思い出すのは、数日前に聞いたカイン兄様の言葉。


戦場で出会ったという“死神の料理人”。

その男の料理は、兵士たちの心を掴み、あのカイン兄様すらも味に心を動かされたという。

王族でありながら、料理に興味を持たず、どちらかといえば『味より量』を重視するあの人が——料理を絶賛した。


そんな話を聞いてから、私はずっと想像していた。

どれほど美しい料理なのか。

どれほど芳醇で、ひと匙で世界が変わるような味なのか。

期待は否応なく膨らんでいた。


だが——



「……これが?」

視界に映ったのは、黒に近い焦茶色の液体だった。

どこか濁っていて、芳醇ほうじゅんな香りがなければ泥水と見間違えていたかもしれない。

それに、皿の中には具材が見当たらない。

水面には深黒の香草がわずかに浮き、油がきらりと光っているだけだった。


(……スープ……なのよね? これ。)


明らかに異質だった。

これまで食べてきたどんな料理とも違う。

しかし、いくら異界の料理だとしても、これは……


「これが……その“転生者”が作った料理で間違いないのよね?」

正直な所、何度見ても美味しい料理には見えない。

しかし、香りだけは、なぜか心の奥を揺さぶるものがあった。


だからこそ、念のためもう一度だけ確認してみる。

しかし、マルチェロは再び口ごもる。

「その……」

(……マルチェロがこんなに歯切れ悪いなんて、何か裏があるみたいね。)

クレセリアはじっとマルチェロの様子を見つめる。


しばらくの沈黙ののち、マルチェロは観念したように言った。


「転生者のジョー殿から……

 『ブイヨン』とは、異界の料理で“出汁だし”を意味するとの事です。」


「だ、出汁だし……? つまりどういうこと?」

言葉の意味が理解できず、クレセリアは眉をひそめる。


マルチェロは申し訳なさそうに、そして静かに告げた。


「現在、こちらのブイヨンをさらに調理中とのことでして……こちらは、調理途中の物になります。」



一瞬、時が止まったようだった。


クレセリアは目を見開いたまま固まり、数秒ののち、ようやく口を開いた。



「……は?」


間抜けな声が、無意識に漏れた。

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