026話_一夜明けての香り

朝の光が、王城の白い回廊かいろうに差し込んでいる。


東の塔から昇る太陽が石畳いしだたみにやわらかな影を描き出し、

静まり返った城内にわずかなぬくもりを与えていた。


しかし——その光の心地よさとは裏腹に、

マルチェロの胸の内は、重く沈んだままだった。


「……まったく……老体に堪える事ばかりですな。」

独り言を呟きつつ、手に持った銀の盆を少し持ち上げ直した。


その上には、蒸気の立ち昇る料理。

少し濁った琥珀こはく色の液体の中に、深黒の香草と微かな油の揺らぎ。

香りは重層的に鼻をくすぐり、味覚を刺激する。

それでも十分すぎるほどの香りだ——そう、十分であればよかったのに…


しかし、この料理こそがあの不気味な男——ジョー殿の『力の提示』であるというのだ。


(……理解はできますが……納得はしておりませんぞ、ジョー殿。)

ため息を一つ吐きながら、静かにクレセリア様の私室へと向かう。


昨夜からほとんど眠っておらず、体は鉛のように重い。

だが、それ以上にこの朝の任務——

この料理を、あの方に“届けること”が、マルチェロの心を重くしていた。


「……しかも私が、クレセリア様に“あれ”を伝えるとは……」

歩を進めながら、まるで現実逃避をするかのように、マルチェロはふと過去を思い返していく。



——国王陛下、グレオ様。

あの方は、クレセリア様を——実の娘を、それはもう…異常なほどに愛しておられた。

一人娘ということもありましたが、その愛はまさに執着に近く、幼き頃のクレセリア様を離宮に閉じ込め、外の空気すら与えぬほどだった。

だが、その陛下も病に倒れ、余命を意識し始めた頃——今度は、“王としての教育”を私に託された。


『マルチェロ、お前にすべてを任せる。あの子を……“強き器”へと育ててくれ。』

そう言われたのが、すべての始まりでした。


それ以来、私はクレセリア様の執事であり、教育係であり、そして護衛として——常に傍におりました。

剣の構えから始まり、政治史、戦略論、古代語まで。

王族とはいえ、それまで花のように可愛がられ育てられた娘には過ぎる教育を、あの方は耐え、時に泣きながら、それでも前を向いて吸収されていった。


しかし数年前、陛下は急に心変わりをされ、クレセリア様への教育を止めまつりごとにも関与させないよう命を下した。


『あの子に、修羅しゅらの世の王は過酷であろう…せめて穏やかな世界で生かしてやってくれ』


それが、陛下が下した決断であった。

北のアルヴェール教国との争いに停戦協定が結ばれ、後は南のクシェリア王国を統治するだけだったはずが、東の砂漠でガルザル帝国が建国されたと同時に戦争が始まり、ルヴァン王国は戦争の泥沼から抜け出せなくなってしまった。


陛下は『平和な世界の王』ではなく『争いの世界の王』として、クレセリア様は不適格だと決めたのだった。


——しかし、私はすべてを見ていた。

あの方の“王としての正義感”。貧しき者を思い、国に尽くした兵を想い、己の未熟さに泣いた夜も。

そして、そんな世界を変えようとする『平和への想い』は、決して口だけの綺麗事では無い事を。


本来ならば、今回の王位継承の件も止めるべきだった。

表向きには止めるそぶりをしてきた。

だが、私の本心は違う。


——クレセリア様には、それを成す器がある。

だから私は……あの方のたった一人の味方であろうと決めたのです。



……そんなマルチェロが、今手にしているものは。

料理——それも、『この料理』。


「……はあ……」

もう一度、ため息。 しかし、すぐに顔を引き締め直し、呟く。


「……いや、今のクレセリア様の心を思えばこそ、これを届ける意味がある…!」

静かに、けれど確かな足取りで——マルチェロはドアの前に立ち、ノックを叩いた。



一瞬の静寂の間、マルチェロは思う。

この料理を、毒見も含め味見した時に感じた。


クレセリア様、この料理は…いや、彼の料理は——



“王を殺す力”すら秘めているかもしれない。



——しかし、それ以上の事をマルチェロは考える事を止めた。



…このスープが、ただの料理で終わるものかどうか——

その答えは、あの方の中にしかないのだから。

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