第36話
ほむらには悩みがあった。
タタユクと再会して、大学に受かって、小説は本になることが決まった。人生はこれ以上ないほど輝いている。
けれどその中で、避けては通れない壁が目の前に現れた──前世の終わりを、この手で書き記すこと。
(もう
問題はその恒亮が編集者で、かの本を出版しようとしているところにある。
ほむらは約束に弱い。その切実さを知っているから。
本を出すと約束したなら守りたい。今世で初めて交わしたそれを反故にすることなどできない。
だが物語を進めれば、彼に知らせてしまうことになるのだ──彼らがどんなふうに旅を終えたのか。
恒亮に記憶がないことはもう受け入れている。それこそが幸運と呼べると、今では思う。けれどもし──小説を最後まで読んで、記憶を取り戻したら? ほむらはその事態を何よりも恐れていた。
「……これってどうすればいいのかな?」
ぼそぼそと言葉を並び立てたあと、ほむらはちらと顔を上げた。目線の先にはいつも通り派手な顔がある。そこには何とも言い難い表情が浮かんでいた。
「つべこべ言わずに書きなさい」
出てきたのがそんな言葉だったので、ほむらは思わず反駁した。
「わ、わかってるよそんなこと。今は気持ちの話をしてんの」
明李の表情にはっきりと悲しみの色が灯る。同じくらい、怒りも。
「あんたは恒亮さんに思い出してほしくないの?」
「今は……思い出してほしくないって気持ちのほうが、大きい。王の人生なんて苦しいばっかで、その中でもタタユクは特に大変だったはずだし……」
「……」
明李が黙り込む。ほむらは口を尖らせてそれを見ていた。
「なんだよ。明李だってそれを知ってるから、最初はおれに怒ってたんじゃん」
ほむらと明李の初対面はほとんど最悪と言っていいほどひどかった。森林の国の王は、後継者の心を砕いた隣国の王を、決して許しはしなかったから。
明李は自身でも混乱しながら、きつく閉めていた口を恐る恐る開いた。
「……あの世界があたしたちにとって最悪だったのは否定しない。世界のうち葉の一枚でさえ味方はなかったから。……でもあんたが、よりにもよってあんたが……あの子の人生を辛いとか悲しいものとして扱うのは、許せないの」
「……」
ほむらは押し黙った。
彼女は前世でほむらよりも彼に近しい存在だった。孤児の彼と家族のように──後継者なのだから似たようなものだ──接していたひとり。
だから、その言葉に宿る怒りを、ほむらは受け入れるしかなかった。タタユクの人生においてカシュハは客人に過ぎないが、彼女は違う。
「記憶がないのは確かにいいことかもしれない。余計なことで悩まなくて済むから。でも思い出したからって苦しみばかりあるわけじゃない。あんたはあの子の前世が傷跡だと思い込んでるけど、あの子にとっては宝物かもしれない」
ぎゅっと、手のひらを握りしめた。強く……砂を掴むように。
「思い出しても、思い出さなくても、あの子はずっと幸福だ。あんたが心配することなんてない」
白くなった手に細い指が重なる。まだ寒さが続く教室の中で、明かりが灯るようにあたたかかった。
「書いて。あの子のために。……あなたたちを追ってあの道を歩いた、私たちのために」
ほむらは滲む視界の中、その瞳を覗き込んだ。そこには王のまなざしがあった。
非情で苦痛に満ちた場所に、生涯居た者の目だ。はるか昔に歪み、決して元には戻らない、静かな玉石。それに見つめられると嫌でも思う──おれたちには、生まれながらにやるべきことがある。
それが今世では書き記すことだった。その義務がどれほどほむらを傷付けようと関係ない。そのために生まれてきたのだから、やるしかないのだ。
「……分かった。約束する」
固まった手のひらを解く。そっと重ねられる手を一瞬やわらかく握って、すぐに離した。ここに必要なのは憐憫ではない──おれたちが同じ存在だと分かれば、それだけで力になる。
「待ってる」
その口元が震えているのを見て、ほむらは無理やりに笑った。
ほむらは約束は破らない。
その切実さを知っているから。
二月の終わり頃、ほむらは再び深い執筆生活に入った。夜遅くまで唸りながら小説を書き、日中は家事の手伝いのほか、アルバイトに行くこともある。それは三月半ばまで崩れることなく続いた。自制心の緩いほむらにしては珍しく緊張感のある生活だった。
執筆は、これ以上なく順調に進んでいる。ほむらが何百回、何千回となぞった記憶のため、引き出すのは容易い。……問題があるとすれば、それが懐古や愛撫ではなく、傷口を無意識に押さえつける自傷行為に近かったことだ。
「……ちょっとやつれたんじゃない?」
夕飯時、母親がそう言うので、ほむらは笑って誤魔化した。
「そうかな。ちゃんとご飯も食べてるし、元気だけどね」
しかし相手は母親だ。十八年間見てきた子の変化に気付かぬ訳もない。
「しんどい思いしてまでしなきゃいけないことなの? あれって」
目線がほむらの部屋の扉に向けられる。少しだけ開いた隙間から、辞書や地理の図鑑が散乱しているのが見える。
「うん……」
今ほむらの身にある苦しみは、本来前世だけのものだった。それが今世まで引き継がれているのは不運と言えるだろう。
しかしだからこそ、ほむらはこの仕事に意味を見出し始めた。書けばそれは物語のものになる。己の傷を物語に移植する行為だと感じるようになったのだ。
「……終わらせたいんだよね。昔のことをきれいさっぱり」
「昔って……」
「前世のこと。小さいときから話してたよね」
魚の骨を取りながら、顔も上げずに言う。母は困惑を隠せなかった。ほむらが最後にその話をしてから、もう十年は経つ。それが今でも生きていることに驚き、同時に恐怖を覚えた。
「まだ覚えてたの?」
「ずっと覚えてたよ。それで探してた。タタユクっていう、おれにとってすごく大事だった人を」
「あぁ……なんか昔言ってたわね、全然発音できないうちから」
「綺麗に言えなくて、結局なんて呼んでたんだっけ?」
「“たーくん”」
「あー! そうだ、たーくんだ」
「何となく思い出してきた。あんた、たーくんが言ったことにしたら、すぐいうこと聞いたのよね。便利だった」
「たーくんをダシにしないでよ」
「あんたがとんでもなく我儘だったから、仕方なく使ってたの。たーくんが居なかったらここまで大きくなってないわよ」
「何言ってんの、もう」
幼い頃から行ったこともない砂漠の話を繰り返す我が子のことを、母はひそかに心配していた。それが終わった過去などではなく現在であることにも、まだ不安はある。
けれどこの子はいま、その記憶を過去にしようとしているのだ。それを成長以外の何と呼べばいいだろう。
「頑張って終わらせなさいね」
綺麗に残った魚の骨から目線を上げると、母の、安堵と諦念がない混ぜになった顔が見えた。ほむらは眉を下げてぎこちなく笑う。随分久しぶりに前世のことを話して、何かにぶつかることなく終わった安心を、母の前で見せるのは気恥ずかしかった。
「うん」
皿を重ねて手を合わせる。話は終わりだ。ほむらはそろそろ彼の国に帰らねば。
水を流しながらスポンジを泡立てていると、まだ食卓にいる母がこちらを向く。首を傾げて言葉を待つと、予想外のそれが響いた。
「完成したら読んでもいい?」
ほむらは笑って、目線を皿に移す。
「いいよ。特別に許す」
「何それ。偉そうだなー」
その返事にほむらは少しだけ泣きそうになった。
それに気付いているのかいないのか、母が皿を片手に歩いてくる。一歩ずれて隣に並び立った。
「あとどれくらいなの?」
「もうすぐ終わるよ。今週には、多分」
「終わったらお祝いでどっか食べに行こうか」
「やった! 超たのしみ」
狭いキッチンにくつくつと笑い声が響く。
この母が前世の存在を信じているかは分からなかったが、ほむらのことはきっと信じている。それが嬉しくて、ほむらは部屋に戻る時も上機嫌だった。
「キリのいいところで早く寝なさいよ」
「うん」
バタン、と扉が閉まる。
……この孤独な国も、もうすぐ終わるのだ。
さあやるぞ、と小さく声に出して、ほむらは椅子を引いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます