第2話 秘められた痛みと静かな覚悟
翌朝、エリアスはフィーネのことを待っていた。フィーネに何が起きたのか、大丈夫なのか、俺が何かしてしまったのか。聞くことは山程あった。
しかし、部屋の扉を開けて現れたのは、白銀の髪を優雅にまとめた年配の女性――教会のシスター長、マルグリットだった。
「おはようございます、エリアス様。フィーネに代わって、本日は私が伺いました」
そう言って、手際良く看護を始める。
「……彼女は、体調は大丈夫なのですか。昨日、突然苦しみだして、フィーネに何かあったのかと俺、心配で……」
エリアスの問いに、マルグリットは静かに彼を見つめた。
その目には、長年多くの人々を看取ってきた者の慈しみと厳しさが宿っている。
「エリアス様、あなたはフィーネのことをどう思っていますか?」
その問いに、エリアスは少し驚きつつも、すぐに答えた。
「……俺は彼女のことが好きです。彼女のことをもっと知りたい。単なる好奇心じゃない……フィーネの本当の心に、触れたいと思ってる」
エリアスは漆黒の瞳に静かな熱を携え、マルグリットに向き合う。しかしその瞳は、不安と後悔に揺れていた。
「昨日、俺の気持ちをフィーネに伝えたんです。そうしたら、突然胸を押さえて苦しみだして……やっぱり俺が何かしてしまったんでしょうか。それとも、俺が急ぎすぎてフィーネに嫌われたんでしょうか」
マルグリットは静かに首を横に振る。
「いいえ、あの子があなたを嫌うはずがありません。普段のあの子を見ていれば、あなたと過ごした時間が、どれだけあの子にとって救いになったのか、私には分かります」
「……だったら、どうして」
「それを知るには、あなたにも覚悟が必要です。あの子の過去と……呪いに関わる覚悟が。……覚悟が決まらないのならば、この話は忘れてください。そして、あの子のこともお忘れなさい」
マルグリットは厳しさを携えた深い眼差しでエリアスを見つめた。少しの逡巡も見逃さない、深く、強い眼差しだった。
しかし、エリアスは、少しの逡巡もなく即答した。
「俺は、本気です。フィーネと話がしたいし、もっと知りたい。彼女が困ってるなら助けたい。彼女が何を背負ってるのか、教えてください」
マルグリットはその言葉にしばし沈黙し、じっと彼の瞳を見つめた。
彼の漆黒の瞳は、どこまでも静かで、けれど確かに覚悟の火が灯っていた。
マルグリットはゆっくりと頷く。
「わかりました。では……彼女にかけられた“呪い”について、お話ししましょう」
マルグリットは祈るように手を重ね、語り出した。
フィーネは、戦災孤児でした。
魔族に焼かれた小さな村で、家族も友人も失い、泣くことさえ忘れていたあの子を、私が教会に引き取りました。
最初は、何も喋らずただ息をしている、そんな子が、教会での生活で少しずつ笑顔を見せるようになっていきました。
元々、あの子は明るく快活な性格で、誰とでも打ち解ける子どもだったようです。そして何より、愛情表現がとても好きな子でした。
教会に来て元気を取り戻してからは、私や教会のシスターたち、治癒師様や療養のために滞在する兵士様方など、あの子は多くの方に優しく見守られてきました。
あの子は人懐っこく、私や教会のシスターたちに可愛く甘え、事あるごとに「大好きです!」と笑顔で言うのがとても好きな子でした。
あの子はもう大丈夫。これから輝かしい人生が始まることでしょう。
――そう思った矢先。
呪いが発現したのです。
『特定の感情の表出を禁ずる呪い』。
フィーネの場合、それは愛情の表現でした。
好き、愛してる――その一言を誰かに伝えようとするたび、心臓を握り潰されるような苦痛が襲うのです。
最初は、あの子は諦めませんでした。
呪いである以上、解呪もできるはず。どれだけ痛くて苦しくても、これまでどおり笑顔でいようと――。
しかし、残酷にも呪いは解呪の兆しもなく……次第にあの子は人と関わるのを止め、笑顔を見せなくなりました。
「……俺が、あの子に無理をさせたんですね」
呟くエリアスに、マルグリットは首を振った。
「違います。あなたと出会って、あの子は再び笑顔を見せるようになりました。あの子は、自分の中に灯った感情が嬉しくて、あなたに伝えたくて、しかしそれが呪いに触れてしまった」
「……でも、そんな呪いがあって、どうしろって言うんですか。フィーネが幸せになるには……どうしたら」
「それを探すために、私も手を尽くしてきました。あの子には何も言っていませんが――高名な呪いの研究者に、つてを辿って何度も書簡を出しました。ようやく一人、信頼できそうな方から返答があったのです」
マルグリットは部屋の扉に歩いていき、その前で振り返った。
「エリアス様……あなたはきっと、あの子の希望になれる人です。だから――」
「……俺は、逃げません。彼女と向き合います」
その言葉に、マルグリットは微笑みを浮かべ、静かに部屋を後にした。
一方その頃、教会の奥まった回廊で、フィーネはひとり膝を抱えて座り込んでいた。
震える肩。涙を堪える唇。
(やっぱり……伝えられなかった。私なんて、人と関わっちゃいけなかったのに)
誰かと心を通わせるたびに、呪いがそれを引き裂く。呪いが発現してから何度も、何度も経験した。
最初は私も、呪いに抗おうとした。母親のように愛してくれたマルグリット様、暗かった私に優しくしてくれた教会の皆さん、街の人たち……大好きな人たちに、これまでしてきたように愛を伝えようとした。
魔族に村を襲われて家族も友達も失い、すべてを諦めていた私を、皆さんは優しく支えてくれて、何度も愛を教えてくれた。皆さんの愛を受けて、私も次第に元気を取り戻していった。だから、私は皆さんにたくさんの愛を返したかった。
でも……呪いが発現してから、愛を伝えようとする度、心臓が握りつぶされるかのような痛みと苦しみが身体を駆け巡った。苦痛で声が詰まり、身体が震えて、何もできなくなる。
私は何度も、何度も同じことを繰り返し……やがて諦めた。
もう諦めて、穏やかに過ごそう、そう思った。私が愛を示さなくなっても、マルグリット様や皆さんは私に優しくしてくれる。
だから、もうこれ以上誰かと心を通わせずに、大切な人を作らずに、静かに生きていけば良い。
そう考えていた。
だけど、エリアスさんに出会って、私は希望を持ってしまった。
男の人への初めての想い。エリアスさんとの時間を過ごす度に、胸が高鳴って、何をしなくても少し苦しい。
……これが恋なんだ。
エリアスさんが私のことを好きだと言ってくれて、思わず私も抱え込んだ気持ちを伝えようとしてしまった。
……もう諦めたはずだったのに。辛くてすごく苦しかったから、諦めて生きていこうと思ったのに。
私は何も分かっていなかった。
愛を伝えたい人に伝えられないことが、こんなにも苦しいなんて。
呪われた私が、これ以上エリアスさんに近づいてはいけない。
エリアスさんみたいに素敵な人は、もっと明るくて、愛する気持ちをちゃんと伝えられる子と結ばれるべきなんだ。
愛を伝えられない私なんかじゃ、エリアスさんを幸せにできない……。
フィーネは涙を拭いて立ち上がり、マルグリットの元に行こうとした。
明日から正式にエリアスの看護担当を外してもらうために。
そのとき――
「ほう、君が、フィーネだな」
不意に、男の声がした。
振り返ると、長衣に身を包み、片手に古びた書物を持った男が立っていた。
「誰ですか……?」
「私は、アリオット。呪いの研究者だ。君に会いに来た」
警戒して身を引くフィーネに、別の影が重なる。
「フィーネ、大丈夫よ」
マルグリットだった。
彼女はそっとフィーネの肩に手を置き、微笑んだ。その瞳は慈愛に満ちている。
「この方に、あなたの呪いについて相談していたの。……勝手なことをしてごめんなさいね。でもフィーネ、あなたは自分の呪いについて知るべきです。……そして、今の自分の本当の心と向き合いなさい」
その言葉に、フィーネの瞳が揺れた。
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