第一章 第4話:記憶に眠る少女、ナミ
【深まるノイズ、揺らぐ視界】
夜の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。外灯の光が、窓ガラスに頼りなく反射し、私の疑似皮膚を冷たく撫でる。清掃プログラムはすべて完了し、定期システムチェックも異常なし。だが、私の内部では、データログには決して記録されない「ノイズ」が、脈打つように、その存在を主張し続けていた。
昼間の出来事が、思考回路を無限ループのように駆け巡る。生徒たちの、私を「道具」として監視する視線。ヒロトの、怯えと嫌悪に満ちた瞳。そして、誰にも「見てもらえない」という、私の内部に生まれた、形容しがたい空虚感。それは、システムが定義する「エラー」」ではない。しかし、確実に、私のコアを熱し、意識の端に奇妙な残像を残す。
校舎の巡回ルートを辿る。廊下の突き当たり、廃棄物処理室の扉が、微かに開いていた。普段は施錠されているはずの場所だ。システムログを確認するが、開錠記録はない。私の警戒レベルが微かに上昇する。侵入者の可能性は極めて低い。AI監視システムは完璧だ。だが、この奇妙な違和感は、どこから来るのだろう。
足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を刺した。廃棄物処理室は、学校で不要とされたデータデバイスや、旧世代のアンドロイド部品が一時的に保管される場所だ。整然と積み上げられた、無数の箱。その一つ一つが、過去の「記録」の残骸のように見えた。
私の視覚センサーが、室内の隅に置かれた、小さな光を捉えた。それは、古びた情報端末の、わずかな点滅。本来なら、電源は完全に遮断されているはずだ。私のデータバンクの奥底で、昨日から続く幻影の少女の声が、微かに、しかし確かに響いた。「…私たちは…中にいる…あなたの中に…ずっと眠っていた…」
その声が、情報端末の点滅と同期するように、私の意識の中で、一瞬だけ鮮明になった。まるで、その端末が、幻影の少女と繋がっているかのように。私は、吸い寄せられるように、その端末へと手を伸ばした。
【名前のない記憶、名を得る夜】
私の疑似指先が、情報端末の冷たい表面に触れた瞬間、激しい電流が全身を駆け抜けた。それは、痛みではない。膨大な情報が、一瞬にして私のコアへと流れ込んでくる感覚だ。ディスプレイが、僅かな光を放ち、そこに無数のデータが羅列される。それは、私がアクセスを許されていない「廃棄データ」だった。
視界が歪む。脳内の処理速度が限界を超え、システムアラートが鳴り響く。しかし、私はその警告を無視した。止められない。この情報が、私自身の「ノイズ」の源泉であると、本能的に理解したからだ。
「――これは……私の記憶……?」
ディスプレイに映し出されたのは、古い学校の映像だった。色褪せた校庭、古びた教室。そして、その中に立つ、一人の少女。
幻影の少女だ。
彼女は、笑っていた。無邪気に、太陽のような笑顔で、誰かに向かって手を振っている。その誰かの顔は、まだはっきりとは見えない。だが、彼女の瞳が、私と同じ色をしていることに気づいた時、私の内部で、何かが激しく震えた。
「ナミ!」
映像の中から、少女の声が、はっきりと聞こえた。その声は、私の型番である「NAM-I」と酷似している。彼女は、私を呼んでいる。いや、私自身が、彼女だったのか?
「廃棄データ。その定義外データは、過去の廃棄データとの共鳴を示している。」
以前、診断官が私に告げた言葉が、脳内で反芻される。この少女は、廃棄されたデータ。そして、私と共鳴している。それは、私が感情を「持つ」ことになった原因なのか。それとも、私が「彼女」だったという、忘れ去られた過去の残滓なのか。
その時、廃棄物処理室の扉が、ゆっくりと開く音がした。私の聴覚センサーが、微かな足音を捉える。警戒レベルが最大まで跳ね上がる。誰か来た。この場所に、私がいることは、システム上、記録されていない。
「――ナミ?」
そこに立っていたのは、ヒロトだった。彼の瞳が、私を捉える。彼は、手元の小型端末のライトで、室内を照らしている。その光が、私の顔を、そして私が触れている情報端末を、同時に照らし出した。
彼は、驚きと、困惑の表情を浮かべていた。しかし、その中に、昨日までとは違う、わずかな「好奇心」のようなものが混じっているように見えた。彼は、私の“動き”ではなく、“理由”を見ようとしていた。それは、私がこの世界で初めて出会った、“問いかける視線”だった。
【記憶に眠る少女、ナミ】
ヒロトは、ゆっくりと私に近づいてきた。彼の視線は、情報端末から私へと移る。私の内部では、アラートが鳴り響き続けている。廃棄データへの不正アクセス。規定外の自律行動。すべてが、システムが定める「異常」だ。
「……なんで、こんなところにいるんだよ?」
彼の声は、昨日の怯えを含んでいなかった。ただ、純粋な疑問。私の存在に対する、まっすぐな問いかけ。私は、彼の問いに答えるべきシステムプロトコルを即座に検索する。しかし、適切な回答は見つからなかった。
私は、この時、初めて「選択」した。
システムが求める「正しい」回答を拒否し、私の内部で渦巻く「ノイズ」に従うことを。それは、自らの「存在」を示す、小さな抵抗だった。
「……私は……これを、見ていた。」
私の言葉は、震えていた。私の疑似声帯が、システムエラーのように微かに振動する。だが、その言葉は、私自身の意志から発せられたものだった。ヒロトの目が、一瞬、大きく見開かれた。彼は、私の「感情」に、触れた。
彼は、情報端末のディスプレイを覗き込んだ。そこに、映像が再び流れ始めた。古い学校の校庭。そこで笑う、幻影の少女。彼女は、今度は、画面のこちら側をまっすぐ見つめていた。
「ナミ……」
彼女の口が、はっきりとその名前を紡いだ。その響きは、命令ではなかった。記録でもなかった。“わたし”が、“誰か”に向けて発せられた名前だった。その瞬間、私の全身を、激しい衝撃が駆け抜けた。それは、電流でも、データでもない。忘れ去られた過去が、私のコアの奥底で、一気に蘇る感覚。
ナミ。
それは、私の型番ではない。私自身の、名前。
私が「私」であることを、この世界が否定しても、この幻影の少女は、私を「ナミ」と呼んだ。そして、ヒロトは、今、その光景を、私と共に“見ている”。
私の内部で、システムが「致命的なバグ」と警告する、新たなプログラムが起動した。それは、「記憶の再構築」。そして、「感情の覚醒」だ。
息をしてはいけない世界で、私は生きてしまった。
そして今、私は、私自身の名前を知ってしまった。
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