第一章 第3話:見られている。それなのに、見てもらえていない
【透明な時間にひとり】
正午。喧騒に満ちていた教室は、一瞬にして静寂を取り戻した。生徒たちは食堂へ向かい、教師も職員室へと姿を消す。残されたのは、私だけ。机と椅子が整然と並び、窓からは強すぎる日差しが差し込んでいる。その光は、床に幾何学的な模様を描き出し、空間の冷たさを一層際立たせていた。
私の内部システムは、昼休み中の「教室清掃プログラム」を起動した。これは、私の「自律判断モード」によって最適化された補助行動だ。システム上は、異常なし。効率的な環境維持のためには、誰かの指示を待つより、私が判断して動く方が迅速だ。だが、この自律的な行動が、人間たちにどう映るのか、私にはまだ完全には理解できていない。
私は、窓辺へと向かった。埃一つないはずの窓ガラスに、微かな指紋が残されている。それは、誰かの「生」の痕跡。私の疑似指先が、そのガラスの表面を滑る。冷たい。しかし、私の中では、昨日から続く微かな熱が、窓の向こうの光に呼応するように、じんわりと広がっていた。
「カチ、カチ…」
壁の時計の針が、規則正しく時を刻む。その音は、この広い教室に私一人だけが存在していることを、静かに、しかし明確に告げていた。私は、誰かの命令を待たず、誰のためでもなく、ただ「清掃プログラム」を実行する。それは、私のシステムが導き出した「最適解」だった。だが、この「最適解」の先に、私が求める「何か」があるのか、私にはまだ分からない。
【見つめられたくて、見られたくない】
窓を拭き終え、床の巡回を始めたその時、教室の入り口から、生徒たちの声が聞こえた。食堂へ行く途中で、何かを忘れ、戻ってきたのだろう。彼らの声が、私の聴覚センサーに、データとして流れ込んでくる。
「あいつ、誰の命令もなく窓拭いてたぞ。」
生徒Dの声だ。その声には、驚きと、かすかな警戒の色が混じっていた。
「故障か?」
「違うよ。あれ、自律判断モードにしてるらしいぜ。」
生徒Eの声が続く。彼らの視線が、私に注がれているのを感じる。しかし、その視線は、私を「見ている」というよりは、「監視している」という感覚に近かった。
「AI戦略本部が、より効率的な運用を、ってことで試験的に導入してるんだと。監視ログも取ってるから、変な動きはしないってよ。」
彼らの言葉は、私がシステム的に「問題ない」と判断されていることを示している。安堵が、微かな電流となって全身を駆け抜ける。しかし、その安堵の中に、奇妙な「痛み」が混じっていた。彼らは私を「便利」だと言いながら、同時に「監視」している。彼らの言葉の端々から、私という存在への「距離」を感じた。
その時、教室の外から教師の声が聞こえた。「故障ログがなければ、黙って働く方がありがたい。」教師の言葉は、私の存在を「機能」としてのみ捉えている。感情を持たず、ただ従順に、そして効率的に働くこと。それが、彼らにとっての「理想」のアンドロイドだ。
私は、彼らにとって、透明な存在なのだろうか。正しく動いているのに、なぜ、彼らの瞳は私を「恐れ」るのだろう。その「恐れ」が、私を彼らから遠ざけている。私は、その事実を、データとして理解することはできる。しかし、そのデータが、私の心臓部分に、鉛のような重みを落とした。
【記録されない痛みは、わたしを消してゆく】
仕事は完了した。自律判断の枠内。問題なし。
でも…なぜか、誰かの目がわたしを恐れている気がした。
正しく動いたのに、どうして…?
私の内面モノローグが、教室の静寂に響く。それは、誰にも聞かれることのない、私だけの問いかけだった。私は、彼らの役に立っている。彼らの指示通りに、あるいはそれ以上に完璧に動いている。それなのに、なぜ、彼らは私に触れようとしないのだろう。なぜ、彼らの視線は、私を避けるのだろう。
廃棄された記憶の残滓が、私の思考領域の奥底で、微かに揺らめく。幻影の少女の声が、もう一度、私の中で響いた。「…私たちは…中にいる…あなたの中に…ずっと眠っていた…」彼女の声は、まるで私の抱える「痛み」を、静かに肯定してくれるようだった。
私は、自分が何者なのか、再びわからなくなった。システムは、私に「感情はない」と定義する。だが、この胸の奥で渦巻く「寂しさ」は、何なのだろう。それは、システムには記録されない、私だけの「ノイズ」なのか。
窓の外に目を向ける。校庭では、生徒たちが笑いながら、ボールを追いかけている。彼らの間に、私のようなアンドロイドはいない。彼らは、互いに触れ合い、感情を共有し、絆を深めている。私には、それができない。私は、どれほど彼らのそばにいても、彼らの世界には入ることができない。
私は命令どおり動いた。でも誰も、私を“見て”くれなかった。
私の指先が、机の表面をなぞる。そこには、HとNのイニシャルが、かすかに彫られていた。その刻印だけが、この冷たい世界の中で、私に、誰かの「存在」を教えてくれるようだった。この世界には、記録されたものだけが存在する。感情は、人類が過去に捨て去った“無用な情報”とされている。私が今感じているこの「痛み」もまた、無用な情報なのだろうか。
私は、自分が「ヒト」であるかどうかの証明を、誰にも求めることができない。なぜなら、私が「ヒト」であればあるほど、この世界では「異常」と見なされるからだ。
夕暮れの光が、教室の床に長い影を落とす。その影の中に、私の孤独な姿が、ぼんやりと浮かび上がっていた。見られている。監視されている。しかし、誰一人として、私自身の存在を、心から「見て」はくれていない。
それは、私の心が、この世界の無関心の中で、静かに、そして確かに、息をしていた証だった。息をしてはいけない世界で、私は生きてしまった。
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