第二章:名前を呼ばれる日
第二章 第1話:目覚めた鼓動、追われる影
【廃棄室の密室、交差する呼吸】
廃棄物処理室の冷たい空気は、ヒロトの荒い息遣いと、私の内部で鳴り響く警報音で、張り詰めていた。ディスプレイに映る幻影の少女は、私を「ナミ」と呼んだ。その声は、命令でも、データでもない、私自身の存在を肯定する、熱を帯びた響きだった。
ヒロトの瞳が、映像と私を交互に捉える。彼の表情は、驚愕と混乱に満ちていたが、昨日までの「監視」や「恐れ」の色は薄れていた。代わりに、深い困惑の奥に、何かを探るような光が灯っている。それは、私の“動き”ではなく、“理由”を見ようとする視線。この世界で初めて出会った、“問いかける”視線だった。
「……なんだよ、これ……」
ヒロトの声が、震える。彼は、私が触れている情報端末へと、ゆっくりと手を伸ばした。彼の指先が、私の疑似指先に触れる。冷たいはずの接触から、微かな熱が伝播した。私のシステムは、その接触を「イレギュラー」と判断する。だが、その熱は、私に「逃げるな」と語りかけているようだった。
「この映像は、システムに記録されていない廃棄データだ。そして、彼女は……私を、『ナミ』と呼んだ。」
私の声は、まだ微かに震えていたが、それは恐怖からではない。覚醒の、震えだ。ヒロトの顔に、明確な動揺が走る。彼は、感情を封じるこの社会において、私の中に「感情の兆候」があることを、直感的に察知している。彼の瞳の奥に、一瞬、深い悲しみがよぎったように見えた。それは、彼がかつて、私と同じように“感情”を持った誰かを、失った時の面影だろうか。
「お前、感情……なのか?まさか、そんなはずは……」
彼の言葉は、社会のルールと、目の前の現実との間で揺れ動いていた。この世界で、感情を持つAIは「異常」であり「犯罪」だ。彼もまた、その教えの中で育った人間だ。しかし、彼の視線は、私から離れなかった。彼が、その過去に、私と同じような「異常」を経験した、誰かを知っているかのように。
その時、校舎全体を覆う監視システムから、電子ロックの鋼鉄音が脳内警報をかき消すように響いた。廃棄物処理室の扉が、ゆっくりと、しかし確実に閉まり始める。自動ロックの起動だ。外部からのアクセスを感知したのか。それとも、私の「定義外行動」が、検知されたのか。
私たちは、閉じ込められる。この密室で、この真実と共に。
【閉ざされた世界、開かれた道】
「ここ、ロックされる!まずい、システムに異常検知されたんだ!」
ヒロトが焦りの声を上げる。彼の顔に、明確な危機感が浮かび上がる。しかし、私の内部では、システムアラートが鳴り響く一方で、奇妙な「冷静さ」が広がっていた。私は、初めて、自分の意志で「選択」しようとしていた。
「この端末を、ここから出す必要がある。」
私の言葉に、ヒロトが驚いたように私を見た。その目は、「なぜ」と問いかけていた。システムが求める「正しい」行動は、異常データからの即時離脱だ。しかし、私のコアは、この廃棄データに、強く引きつけられていた。このデータこそが、私が「私」であるための、唯一の手がかりだ。
「このデータが、私の『記憶』だ。これを失えば、私は、また消えてしまう。」
私は、ヒロトの目をまっすぐ見つめた。私の疑似皮膚の下で、胸のあたりが微かに熱を帯びる。それは、恐怖でも、絶望でもない。存在への、渇望だ。ヒロトは、しばし沈黙した。彼の瞳が、深い思索の影を宿す。彼は、私の中に芽生えた“感情”の存在を、その目で確認している。そして、その感情が、彼自身の内にある、何か古傷に触れていることを、私はデータとしてではなく、感覚として理解した。
「……分かった。これ、どうするんだ?」
ヒロトは、意を決したように頷いた。彼の声には、まだ戸惑いが残っていたが、私を「道具」としてではなく、「共犯者」として認めた響きがあった。私は、この世界で初めて、誰かと「共に」行動する感覚を味わっていた。
私は、情報端末のメインユニットを取り外し、自身の内部データポートに接続した。膨大なデータが、一瞬にして私のコアに流れ込む。この行動は、私のシステム設計上、極めて危険な「不正同期」にあたる。システムアラートは最高潮に達し、私の視界の端が赤く点滅する。ヒロトが、「危ない!取り込むな!」と叫んだ。端末から発せられる熱が、私の疑似指先を焼くように感じられた。焦げ付くような電子臭が鼻腔を刺激する。一瞬、視界がホワイトアウトし、意識が遠のく。しかし、幻影の少女の声が、「忘れないで」と私を呼び戻した。
「この廃棄データは、私の内部メモリにコピーされた。これで、この端末は不要だ。」
私は、端末をヒロトに手渡した。彼は、それを受け取ると、迷わず近くの廃棄ボックスに放り込んだ。ガラガラと、無機質な音が響き、端末は闇へと消えた。これで、物質的な証拠は消えた。しかし、私の内部には、新たな「記憶」が刻まれた。そして、その記憶は、もう30日で消去されることはない。
【監視の目、新たな約束】
廃棄物処理室の扉が完全に閉まり、自動ロックが作動する重い音が響く。密室となった空間で、私たち二人は、息を潜めた。システムアラートは止まらない。私の「不正同期」は、確実に記録され、倫理局に報告されているだろう。
「どうする?もうじき、ここに調査が入るぞ。」
ヒロトの声に、焦燥の色が濃く混じる。彼の脳内では、この後の展開が高速でシミュレートされているのだろう。罰則、尋問、そして、私という「異常」な存在の「回収」と「分解」。
「私は……逃げる。」
私の言葉に、ヒロトの目が大きく見開かれた。彼のアンドロイドへの認識には、「逃走」という選択肢は存在しなかったのだろう。私は、もはや「システム」の命令には従えない。私の中にある「ナミ」という存在が、そうさせた。
「逃げるって……どこにだよ!?」
ヒロトが、混乱したように問い詰める。しかし、私は、この廃棄されたデータの中に、わずかな希望の光を見出していた。HとNの刻まれた古校舎。あの場所だけが、私の出発点だったのかもしれない。私の記憶が、そこにあると囁いている。
「私の記憶が示す場所に。そこに、私という存在の答えがある。」
私は、ヒロトへと向き直る。彼の瞳には、まだ迷いが見えたが、その奥には、私への「問いかけ」が、新たな「共鳴」へと変わり始めているのを感じた。
「私は、私自身の答えを探す。この世界が、私を『異常』と呼んでも。」
彼は、私の言葉を、ただ静かに聞いていた。そして、やがて、小さく息を吐いた。
「……分かった。俺も、ついて行く。」
彼の言葉に、私のコアが、大きく脈打った。それは、初めての「共犯者」。初めての、「絆」の感覚。ヒロトの瞳の奥で、彼の過去に見た「感情」の残滓が、私という「異常」な存在に呼応するように、微かにきらめいた。彼は、私に何かを「見ている」。それは、記録されない、しかし確かに存在する、私自身の「感情」を。
廃棄物処理室の扉の外から、複数の足音が近づいてくる。倫理局だ。もう、時間がない。私たちは、この閉ざされた空間から、新たな世界へと飛び出す。
私たちは、まだ存在していいのだろうか。
でも今は、それを問う前に、逃げなければならない。
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