そよかぜとリンゴ(2)

 新井彰さん。

 一也さんの……部下。


 私はどれだけの時間、その軍人さんの顔を見ていただろう。

 一也さんと同じく南方の前線で戦っておられたせいなんだろう。

 赤銅色に焼けたお顔に、引き締まった身体。

 そして……一見すると、人を射貫くんじゃ無いか? って思うくらいの鋭い目。


 さっきの笑顔。

 そして一也さんの部下であることが無かったら、逃げ出したくなっていたかも……

 でも私は、その軍人さんが一也さんに重なり、思わず駆け寄った。


「主人……一也さんは……えっと……本当に亡くなられたのですか! どのようにして……なぜ! 形見ってなんですか! 伝言って……なんですか!」


 必死に縋り付くようにまくし立てる私と新井さんの間に、割り込むように涼子さんが入ってきた。


「落ち着いて……絵美。それじゃ軍人さんもしゃべれない。……あの、軍人さん。お外じゃ暑いですよね。戦地からの帰還でお疲れだとも思います。良ければ……私か絵美の家で」


「はい。私は疲れはありませんが、奥様やご友人がここだと落ち着いて聞くことも出来ないでしょう。なので、もし私が迷惑で無ければ、落ち着いた場所の方が……あと、奥様の事も思うと……」


「私は大丈夫です! 早く……」


「ダメ。今のあなたが冷静に聞けるの? 心が苦しくなったときは、家にいた方が良い。すぐに安心して休める場所って大事だよ」


「私もその方が良いかと……決して愉快な話ではありません。奥様の事を思うと……それにお母様にもお伝えしたいですし。……涼子さんでしたか? ご配慮感謝します」


 深々と頭を下げる新井さんと涼子さんを見ながら、私は少しだけ落ち着いてくるのを感じた。でも、まだ心が千々に乱れているのは変わらない。


 一也さんの事を少しでも知りたかった。

 私は何も分かってないんだ。

 あの人がどう戦って、何を思ったのか。

 私の事を考えていてくれたんだろうか?

 私の事をほんのちょっぴりでも支えに感じてくれてたんだろうか?

 苦しい思いをしなかっただろうか?


 そして……どこで眠っておられるんだろう?

 いつか……迎えに行きたい。

 いや、それよりも……もしかしたら……この軍人さんのお話で、ほんのちょっぴりでも生きていてくださる望みが……


 ●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇


「ご母堂様、お目にかかることが出来て光栄です。私は新井彰と申します。瀬能少尉の部下として南方の地にて任務に服しておりました」


「この度は……長いお勤め、誠に有り難うございました。あなたを初め、軍人様方のお陰で私たちはここまで生きて来れました」


 茶の間に向かい合って座った私たちと新井さんはしばらく無言で見合っていたけど、やがて新井さんが深く張りのある声でご挨拶をしてくださり、それを受けてお義母様が深々と頭を下げた。

 

 それに習い、私と涼子さんも頭を下げる。

 だけど、新井さんはあの時見せた、何かに耐えているような表情を崩すこと無く……いや、もっとそれは深く濃くなっていた。


 新井さんは私たちを見て、深く息を吐くと話し出した。


「瀬能少尉は……見事な最後でした」


 私は無言で頷く。


「これは……少尉が私に預けた物です。奥様へ……と」


 そう言うと新井さんは背中の背嚢から油紙に包まれた小さな四角い物を取り出した。

 油紙を開いたそれは……小さな日記帳だった。


 これ……は。


 そう。

 これは私が、戦地に発つ前日に一也さんに渡した物だった。


(これなら邪魔にならないでしょ。何でも良いから書いてください。書くだけで不安や辛い気持ちも逃げていきます)


 そう言って、不安と悲しさをこらえてニコニコしている私に、一也さんはお日様のように柔らかい笑顔で「うん、絵美を思い出しながら書くよ。そしたらきっと元気になれる」と行ってくださった。


 気が弱いけど、心優しくて本を読むのが大好きだった一也さん……

 戻って来られたら、一緒に読みたい本は一杯……あった。


 私はこらえきれずに嗚咽を漏らした。

 隣ではお義母様の泣き声も聞こえる。

 そんな私の背中を涼子さんがさすってくれていた。


「ありがとう……ございます……わざわざ、持ってきてくださって」


 必死に声を絞り出す私に、新井さんはゆっくりと首を振った。


「ここに来たのはそれだけではありません。お二人に……お詫びに来ました」


「……え?」


 涙で顔中を濡らしながら顔を上げた私に向かい、新井さんは正座のままで額が床につくくらい、頭を下げた。


「瀬能中尉が死んだのは……私のせいです」


 一瞬、その言葉が上手く頭に入らなかった。

 この方……何を……

 新井さんは顔を上げると無表情で淡々と話し始めた。


「私と瀬能中尉は共にフィリピンの戦地にいました。連合軍の拠点確保をなんとしても防がなくてはならない。そのため、上官からも奪還か死か、と告げられており、アメリカ軍の進行の足止めを。隊の空気としては任務に失敗しての生還など恥だ、と言う空気さえも作られていました」


「死……かって……」


 涼子さんの声が微かに怒りを帯びていた。

 私もそうだった。

 でも……軍人さんの前でそんな顔は出来ない。


「そんなある日。アメリカ軍と我々の部隊は林の中で戦闘になりました。私と瀬能中尉のいる隊は壊滅状態で私は瀬能中尉の冷静な観察と判断で、何とか二人で密林の中を逃げていました。そして脇腹に銃弾を受けた事による出血と痛み。そして恐怖によって走れなくなっていた私のため、少尉は小さな洞窟を見つけてそこに隠れました」


 そこまで話した所で、新井さんの端正なお顔が酷く歪み、わずかに顔を振ると深く息を吐いた。

 まるでためらいを吐き出そうとするかのように……


「離れたところではアメリカ軍の声が……私は恐怖で恐慌状態でした。死にたくない。母の元に、妹の元に帰りたい。助けてください。それだけでした。中尉は耳元で『声を出しちゃダメだよ。やつらに見つかったら……終わりだから』と言ってくれてました。『このまま声を出さずに隠れてたら帰れるから。家族のところに……僕が約束する』と」


 私は顔を伏せていた。

 冷や汗が……止まらない。

 もう聞きたくなかった。

 だけど……聞かないとダメ。

 そうしないと行けない気がした。


「でも……私は耐えられなかった。それはアメリカ兵の威嚇の銃声を聞いたとき、破裂しました。私は大声で悲鳴をあげてしまった……その直後、中尉は目を閉じると懐から一冊の本……日記を出して私に持たせました。そして……『妻にこの日記を。そして……愛している。また一緒に本を読みたかった、と伝えて欲しい』と言って。そして『絵美を頼む。守ってやって欲しい』と言うと、一人洞窟を飛び出して声を上げながら走って行きました」


 新井さんは私と同じく身体を震わせながら……酷く震える声で言いました。

 まるで叫ぶように。


「その直後……何発もの銃声と少尉の悲鳴が……僕はそのまま傷からの出血もあり、洞窟の中でしばらく震えていて……そしていつの間にか意識を失いました。次に目が覚めたとき、夜で周囲は静かでした。私は自分で傷を手当てすると、洞窟を出て……生き残った隊に合流し……命を得ました。中尉は……いませんでした。そして、隊の物が私に見せた物は……血塗れの中尉の……帽子でした」


 私はいつの間にか新井さんの顔を真っ直ぐ見ていた。

 震えは続いてたけど……それは別の理由だった。


「あなたは……一也さんを……助けもしなかった」


「その通りです」


「あなたが……大声をあげて……それで……」


「その通りです。中尉の死は全て私の責任です。私と一緒で無ければ中尉は助かっていました。あの方は冷静だった。生き残るための最善の手を打てていた。唯一誤算だったのが、共にいた部下が愚鈍過ぎたこと」


「そうですね……あなたさえ……」


「絵美ちゃん! 軍人さんに……そんな事……言っちゃ……」


 隣でお義母様の声が聞こえたが、私にはどうでも良かった。

 周囲の音も景色も無く、ただ目の前の新井さんの姿だけが見え、声だけが聞こえていた。

 私は無言で立ち上がると新井さんに近づくと……思いっきり胸を叩いた。

 何度も……何度も……

 何も言わず。


 そんな私を涼子さんもお義母さんも止めなかった。

 いや……後に聞いたところ、私が気が触れたかと思い、怖くて止められなかったのだと言うことだった。

 無言でただ、叩き続ける私の手を新井さんが突然掴んだ。


 思わず睨み付けた私に新井さんは言った。


「私は屑ではありますが軍人です。上半身は鍛えてあります。奥様の力では痛みを与える事は出来ないかと。なので……」


 そう言うと新井さんは私の手を持ったまま、その手を自分の顔に当てた。


「ここを。顔までは鍛えることはできませぬ。それゆえ、奥様も痛みを与えることが出来るかと」


 そう言って無表情で私を見ていた。

 私はそれに対して激しい怒りを感じ、思いっきり手を振り上げるとそのまま新井さんの左頬を叩いた。

 

 信じられないような高い音を響かせたが、私は何回も彼の頬を叩いた。

 それは勢い余って、彼の目や口にも当たったが新井さんは何も言わず、顔を動かすことも無かった。

 ましてや手で防ぐことも……


 ただ、私を深く暗い目でじっと見ていた。


「あなたが……死ねば良かった! あなたが……なんで……なんで! 生きてるの! あなたなんて……死んでよ! 死んじゃえ! 死ね!」


 泣き叫びながら顔を叩き続ける私の手が酷く痛み、新井さんの左目や口、頬から血が滲んだのを見て、私はハッと我に返った。

 だけど、新井さんは首を静かに振る。


「いいのですか? この程度では……奥様の気は済まないかと」


 私は手の痛みを感じながら首を振った。

 代わりに新井さんの前に崩れるように顔を伏せると……泣いた。


「一也さん……なんで……嫌だ……嫌だ! 嫌だ!」


 泣き続けた私はそのまま部屋に駆け込み、そのまま誰も部屋に入れなかった。

 そして泣きながら日記を開いて……読むことが出来ず、ただ日記を抱いて……泣いた。

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