第十八話 六調子の前奏曲 〜三時間〜

 ありがとう祭の朝。

 まだ空には薄く雲が広がっていて、日が明けてはいるが、どこか薄暗い。


 ハチマンコーヒーの前では、すでに慌ただしく準備が始まっていた。


 ナナ、ユウカ、アキラ、そして──

 盆踊り大会でも見かけた、すみれ色のポロシャツの集団。


 ボランティア部のメンバーだった。

 アキラのピンチを知った金岡くんが、佐々木副部長に相談してくれたのだ。

「今度は、自分が力になりたい」――その言葉を受けて、佐々木くんが部員たちに声をかけてくれた。

 参加は自由だったが、ほとんどのボランティア部員が集まってくれた。

 当日の手伝いだけでなく、発表会の発表者集めにも、それぞれができるかたちで協力してくれた。


 発表者の方はというと、

 アキラが意を決して声をかけたインドネシア人看護師、アユさんが、あっさり「いいよ」と引き受けてくれた。


ハチマンコーヒーの常連で、子どもにも高齢者にも人気者の彼女は、

 「楽しそう」と言って、他のお客さんにも発表を呼びかけてくれた。


その輪が、六人の発表者につながっていった。


「おはようございまーす! よろしくお願いしまーす!」


 元気な声とともに、ゾロゾロと高校生が八人ほどやってきた。

 アキラとハルのクラスメイトたちだった。


「こっちも文化祭の準備みたいで面白そうじゃん」

「休日だし、やるよー!」

「ハルとアキラが実行委員なんでしょ? 楽しそう」


 アキラが声をかけたとき、みんな、「行くよ」と笑って、自然に集まってくれた。


 アキラは、泣きそうになりながら、みんなに「ありがとう」を伝えた。

 クラスメイトたちは、そんなアキラを見て、笑い合っていた。


 ハチマンコーヒーのテラス近くに張られた「高田高校」と書かれた白いテントの下では、ユウカと真嶋くんがナナと打ち合わせをしていた。

 足元にはまだ組まれていないテントが三組ある。


 駐車場は、ハチマンコーヒーの隣の今は使われていない製材工場の敷地を使わせてもらうことができた。


 椅子や机は、自治会や公民館から借りることとなり、今、佐々木くんと、ハチマンコーヒーのスタッフ・マコトさんが、軽トラックで受け取りに向かっているところだ。


 まだ、空気はピリピリしている。

 全部が揃ってはいない。

 間に合うかどうか、誰も確信できない。


 でも──

 みんなの顔には、期待感とどこか晴れやかな光が宿っていた。


 まだ、誰の手も止まらない。

 走る足音と、テントを組み立てる音が、朝の空に響いていた。


「やばっ……九時、回ってるじゃん!」


ナナが手首の時計を見て、息を呑んだ。

あと、三時間。


テントはまだ骨だけ。椅子、未着。

音響も動かず、展示も空白。リハーサルなんて、夢のまた夢。


「……間に合うのか、これ」

誰かの声が、風にかき消される。


遠くでガムテが切れる音。誰かが段ボールを蹴飛ばす。

声が、音が、急かすように、会場中で跳ね返る。


アキラは、発表リストを握りしめていた。

携帯に視線を落とし、ひと呼吸。


「……はい、江口です。今日はありがとうございます。えっと、発表は……」


声は震えていたが、ひとつひとつ、言葉を置いていく。

まるで、細い糸を、手探りで結ぶように。


深呼吸。

一人話し終えるたび、頭を深く下げた。


彼女の背中の向こうで、テントがぐらりと立ち上がった。


  *  *  *


 空はだいぶ明るくなったけれど、

 会場にはまだ、準備が終わらない空気が漂っていた。


 テントの下では、ユウカと真嶋くんが、急ぎ足でテーブル配置を確認している。

 予定よりテーブルの数が少なくなりそうで、設置の間隔を見直しているところだった。


「えっ、机と椅子……まだ、受け取れないの?」


 ナナは携帯を耳にあてたまま、眉をひそめて小さく首をかしげた。


 けれど、すぐに表情を切り替える。


「うん、うん、大丈夫。とりあえず、そっちで待機してて。……うん、佐々木くん、ありがと。後でまた連絡するね」


 鍵の受け渡しで手間取っていて、予定より一時間近く遅れそうだという。


「了解。こっちはできるところまで進めとくね」


 通話を切ると、ナナはふぅっと息を吐き、手のひらで顔を覆った。


「やー、まいった……!」


 けれどそのまま、手のひらをパッと開いて、空を仰ぐように笑った。


「二時間……もう、切ってるなあ」


 会場のあちこちでは、すでに準備が同時に進められていた。


 ハチマンコーヒーの中では、

 おばあちゃんコンビのチヨさんとユウコさんが、高校生たちに「やせうま」の作り方を教えながら、せっせと仕込みをしていた。


「粉を練ったら、こうして平たく伸ばすんよ〜」

「お湯入れるとき気ぃつけてな」


 優しい声と笑い声が交錯する厨房。

 テーブルの上には、できたてのやせうまにきなこをたっぷりまぶした大皿がいくつも並び始めていた。


 隣では、アユさんが小鍋をかき回している。


「これが、インドネシアのミーゴレン。すこし甘め。食べやすいよ」

「えっ、おいしそう!」

「あと、サテも焼く。ピーナッツだれ、ちょっと時間かかったけど、がんばった」


 高校生たちが、興味津々で鍋をのぞきこんでいた。


 屋外では、

 クラスメイトたちが残り一つのテントを組み立て、案内板をくくりつけ、祭り感を出すために手作りのガーランドを張っていく。


「急いでー!」「ガムテープ、ない?」「そっち押さえて!」


 走る声、掛け声、バタバタと走り回る足音。

 朝の空に、必死なエネルギーが広がっていった。


 アキラは、発表会のリストを手に、発表者に電話で声をかけて回っていた。


「発表は三分くらいを目安にお願いしています。

他にもたくさんいらっしゃるので、ちょっと前後しても大丈夫です。

緊張しちゃっても、全然平気です。

何かあったら、私がすぐにサポートに行くので、安心してくださいね」


 小さな声で、でも真剣に。

 アキラは顔を赤くしながら、電話口で一人ひとりに丁寧に頭を下げていた。


 それぞれの持ち場で、みんなが全力で動いていた。


 だけど、

 まだ椅子も机も届いていない。

 音響テストも始められていない。

 展示コーナーの設営も手付かずのまま。


 そして──

 ハルの絵も、まだ、届いていなかった。


「……結構ヤバめだよね」

 誰かがぽつりと漏らした。


 でも、誰も手を止めなかった。

 いま、できることを、ただ必死に続けていた。


  *  *  *


《開始一時間前》


 テラス周辺に、来場者の姿がちらほら見え始めていた。


 届いたばかりの椅子やテーブルを、高校生とボランティア部のメンバーが手際よく運び出していく。


「この列、あと三脚!」「そっち、先に並べて!」

「段差あると危ないから、テープ貼っておこう!」


 ピリッと張り詰めた空気のなかに、

 どこか文化祭前のような熱気が混じっていた。


中央には、木製の簡易ステージ。

 前日に工務店の棟梁とマコトさんが自治会と協力して設営したもので、天板には滑り止めのカーペット、背面には「ありがとう祭」の横断幕が貼られている。

 堂々としたその佇まいが、会場の中心を引き締めていた。


 ステージ脇では、商店街の電気屋の店主が音響の最終チェックを進めている。

 マイクとスピーカーは店からの貸し出し。

 前日のうちに基本配線は済ませてあったが、リバーブの調整や音量の微調整に余念がない。


「……リバーブ、ちょっと強いな。もう少し下げとこか」


 そのころ、ユウ先生が薬膳講師の小山さんを乗せて戻ってきた。


「お待たせ。こちらが今日お願いしている小山さん」


「よろしくお願いします。薬膳の展示、あちらのテーブルで準備しますね」


 小山さんはすぐに展示に取りかかり、ユウ先生もストレッチ用の椅子の配置に加わる。


「ここで運動もしはるしな。転ばんように間隔見てな」


 いつも通りの口調で指示を飛ばす先生に、周囲の緊張が少しやわらいだ。


 ステージ横では、真嶋くんがモニターの動作チェックをしていた。

 設置されているのは、公民館から借りてきた大型のテレビだ。


 そこへ、ゆっくりと歩いてきたのは、ハチマンコーヒー常連でもある美術部顧問の近藤先生だった。


「ほう……これは、また立派なもんじゃな」


 モニターと架台を見上げながら、穏やかな声でつぶやく。


「はい、公民館から借りました」


 すぐそばで作業していたユウカが答える。


「最初は、貸し出しは難しいって言われたんですけど……

ナナさんが市役所に相談してくれて。そしたら市長さんに話が通って、

“町として応援したい”って、正式に許可いただいたんです」


「そりゃすごい」


 近藤先生が感心したように目を細める。


「市長さんも、今日は来てくださる予定です」

 ユウカの声には、少しだけ誇らしげな響きがあった。


 そのすぐ横では、商店街の電気屋の店主が、

 音響機器の最終チェックを黙々と進めていた。

 黙ってコードをまとめるマコトさんの姿も、モニターの裏に見える。


「しかし……文化祭よりよっぽど本気だな、これは」


 近藤先生はそう言って、小さく笑った。


その隣では、佐々木くんとクラスメイトの男子が脚立に登り、A1サイズに拡大したプログラム表を張りつけていた。


「こっち持ってて、まっすぐ……よし、貼るよ」


 養生テープをピシッと押さえながら、男子が言った。


「ユウ先生って、病院の先生なんだよね?」


「うん。高瀬クリニックの先生。ずっと地域医療に関わってるんだって」


「薬膳の先生も、そのつながり?」


「そうそう。小山知佳先生っていう、中医学の専門家で──ユウ先生が前に別府の病院で働いてたときの知り合いなんだって」


「へえ、そうなんだ……。ふれあいタイムって、さっきあっちで準備してたやつ?」


「うん。郷土料理とか薬膳、あとインドネシア料理もあるって。食べながら展示を見たりするんだって」


「やっぱ文化祭っぽいなあ。自由時間もあって、発表もあって」


 佐々木くんは笑いながら、テープをピシッと押さえた。


「でも、後半はガチだよ。絵の展示と、『ありがとう発表会』。

 江口さん、今その準備で裏でバタバタしてる」


「そっか、俺らも段取りミスらないようにしないと」


 二人は紙の端を押さえながら、張り終えたプログラムを見上げた。



ありがとう祭・プログラム(11:00 開場)

11:30〜 健康講座

 講師:高瀬 優仁/高瀬クリニック

 テーマ:「地域医療と自分の健康を考える」

12:00〜 薬膳講座&展示

 講師:小山 知佳/薬膳コーディネーター

 テーマ:「季節とからだにやさしい食養生」

12:30〜 地域ふれあいタイム(自由参加)

 ・やせうま・石垣餅などの郷土スイーツ体験

 ・インドネシア料理(ミーゴレン・サテなど)試食ブース

 ・薬膳&健康ブース/ありがとうカード展示コーナーなど

13:00〜 ありがとうカード紹介・絵画発表

 発表者:秋吉柚里菜(高田高校)

 テーマ:「渡り鳥の絵に込めた“ありがとう”」

13:30〜 ありがとう発表会

 進行:江口陽菜(高田高校)

 “ありがとう”をつなぐリレー発表(全6人予定)

14:00〜 クロージング挨拶・集合写真撮影


——


「ナナさん、ハルちゃん、まだですか?」


 スタッフのひとりが声をかけた。


 ハチマンコーヒー店内の一角、ハルの絵が飾られる予定の壁には、まだ何もかかっていない。


「うん、大丈夫。もうすぐ来るって、連絡はもらってるから」


 ナナは穏やかに答えながら、その壁に目を向けた。


 ダークブラウンの壁の前には、小さな脚立と掲示用の道具、

 そして赤い巣箱のオブジェが置かれている。

 その佇まいは、まるで絵を迎えるための“巣”のようだった。


 未乾燥の油絵を安全に飾るための準備は、すでにすべて整えられていた。


 ハルの絵は、まだ届いていない。

 けれど、誰も手を止めることなく、次の作業へと移っていく。


 それぞれの準備が、静かに「そのとき」を迎えようとしていた。


  *  *  *


《開始三十分前》



「……ハルちゃん、来た!」


 誰かが声を上げた。


 店の前に、一台の車が静かに停まる。

 後部ドアが開き、ハルが降りてくる。


 目元は少し赤い。でも、その表情はまっすぐだった。


 車の荷台には、大きなキャンバスが横向きに丁寧に寝かされていた。

 とても繊細な、乾いていない油絵。

彼女は両手でそっと絵を持ち上げ、丁寧に運ぶ。


「通ります」


 小さな声とともに、ハルは絵を抱えて人の間を歩いていく。

 その姿に気づいた人々が、自然と通路を開けた。


 空気が一瞬、凪いだ。


 走る足音も掛け声も、絵が通るその数秒だけ、場のどこかに吸い込まれていく。


 店の奥、脚立の前に立ったハルは、両手で絵を高く掲げた。

 クラスメイトが脚立を押さえ、ナナがそっとうなずく。


 ふいに、そばにいた女子生徒が、小さく息をのんだ。


「……さっきまで、描いてたの?」


 誰にともなく漏らされた声。

 ハルの指先には、まだ乾ききらない絵の具が淡く残り、光を受けてかすかにきらめいていた。


 ——絵が、壁にかかった。


鮮やかな青を基調にした、渡し鳥・カササギの姿。

 その羽には、赤や黄、緑、紫といった、様々な色がやわらかく溶けあっている。

 まるで人の気持ちが羽ばたいているような、そんな絵だった。


 ナナがそっと、手書きの札を貼る。


《乾いていない油絵です/お手を触れないでください》


 ハルは、ひとつ息を整え、小さくうなずいた。


「……次は、写真展示の飾りつけを仕上げたいんだけど、誰か手伝ってくれる?」


 周りのクラスメイトに声をかけた。


「あと10分で仕上げよう……!」


 洗濯ばさみ、麻紐、リボン——

 準備してきた飾りつけ道具を広げ、ハルは黙々と手を動かしていく。


 その背中を、サクラと母が見守っていた。

 サクラは、カササギのぬいぐるみを胸に抱いている。


 飲食ブースでは、湯気が立ちのぼる。

 声が飛び交い、笑い声が重なり、モニターのテスト音が会場に響く。


 慣れない手つきでも、誰もが今この瞬間のために動いていた。


 この日をつくっている人たちの表情には、焦りと同じくらいの

——誇りと、期待と、ほんの少しの高揚が、にじんでいた。


湯気のむこう、陽光がようやく雲を抜けて差し込んでいた。


《ありがとう祭、いよいよ開場へ》

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