第十七話 六調子の前奏曲 〜朔望〜

 青く高い空。

 山に色が足されていく。

 風に秋が乗っている。

 もう、間もない。


 放課後、美術準備室を訪ねた。

 近藤先生は、いつものように机に向かって資料をめくっていた。


 私は、ありがとう祭のことと、ありがとうカードのイメージを描きたいことを説明した。


「そりゃ、大ごとだな。間に合うのか? もうあと三週間もないぞ。

描くものがはっきりしてても、ギリギリの時間じゃないか」


「描くものは決まりました。渡り鳥をモチーフにします。

それで、あの絵を、もう一度見たくて」


「あの絵? ああ、あの鳥の巣の絵か」


「はい。あの絵が、なんであんなに優しく包むように見えたのか、知りたくて」


「そうか……おぅ、こっちだ」


 先生は立ち上がり、修復中の絵へと案内してくれた。

 イーゼルに乗せられた、あの絵。


「これが、あったかく見えるのは何故か、か。まあ、色合いもあるがな」


「これを描いた人は、どうしてこの絵を描いたんでしょうか」


「それは本人に聞かんとわからんがな……ただ」


 近藤先生は、絵を眺めながら、静かに言った。


「……この絵には、“ホーム”いう題がついとるが、ここに描かれとる食卓や風呂は、病院にはない、家にしかない安らぎの場所や。

この絵はな、初めから病院に飾られることを考えて描かれたもんやからな。

病院にいても、少しでも家みたいな安らぎを感じてもらえたら――

きっと、そんなふうに思って描いたんとちゃうかな、そんなこと、修復しながら思ったよ」


「この絵を見る人の思いに、応える……」


「広瀬。なんとなくでも、何かが見えてきたなら、それでええんや」


 先生は、静かに微笑んだ。


「そりゃ、またしばらくは全力やな。

広瀬に寄り添う作品に、出会えることを祈っとるよ」


「はい!」


 私は美術準備室を飛び出し、

 夕暮れの中を、まっすぐに家路を急いだ。

 ギリギリ。なんとか間に合わせる。



 ありがとう祭まで、あと十日と迫ったある日。

 ナナに呼び出され、ハチマンコーヒーに集まったのは、ユウカとアキラだけだった。


「ありがとう、来てくれて。

もうあと十日だけど……進捗、どう?」


 ユウカが一歩前に出る。


「ハルの方は、写真はもう仕上がってます。あとは当日の飾り付けだけ。

絵も順調だけど、もともとギリギリなので、なんとか間に合わせます、って。

私のほうは、ユウ先生にお願いしている部分が多いですが、今のところ大丈夫です」


「OK。ユウカちゃん、ありがとう。

アキラちゃんは――ちょこちょこ進捗聞いてたけど……やっぱり、ちょっと厳しそうだね。あれから、どう?」


 アキラは、すこし俯きながら答えた。


「……まだ、ゼロです」


 ナナはうなずき、やさしく声をかける。


「そっか。

……まだ、リストで声かけてない人がいたら――もう一回、チャレンジしてみようか」


 アキラは、少しだけうつむきながら言った。


「……はい。

あの、巻き込まれて嬉しいって……どうしたら、そう思ってもらえるのかなって。

みんなの前で、自分の気持ちを話すのって、やっぱり……こわいよね」


ユウカは、静かにうなずいた。


「……たしかに、そうだね。

でも、アキラが言ってたみたいに——

言えなかったけど、本当は伝えたかったって人、きっといると思う。

発表会、アキラが開いてくれて……良かったって思ってる人、いるよ」


アキラは、うつむいたまま、小さく頷いた。


「……ありがとう、ユウカ。

でも……どうしたらいいのか、わからなくて」


 ナナは一拍おいて、ぱっと声の色を変える。


「ダメダメ、そんな顔しない。……えらしい顔で、笑わなきゃ! しんけん、楽しもうや?」


 少し間を置いてから、今度はふわりと笑って言った。


「そしたら、きっと“巻き込まれたい人”も出てくるよ。それでも難しかったときには、ハチマンコーヒーのスタッフでなんとかするから。安心して」


「はい……すみません」


 アキラは、しゅんとしながらも、顔を上げた。


「気にすんなって! それだけ、大変なことにチャレンジしてるんだからさ。いいちこ、いいちこ!」


 ナナは、優しく微笑んだ。


「前から思ってたんですけど……時々でてくる、ナナさんの大分弁、ちょっとだけ変ですよね」


 ユウカがクスクス笑いながら呟く。


「えっ、そうなの? 私、フィーリング大分弁だからね」


「もう一回、挫けずやってみます」


 アキラも少し微笑んで、黄色いラインマーカーだらけのリストを、じっと見つめた。


 その様子を見届けてから、ナナは少しだけ、声のトーンを変えた。


「それでね。今日、みんなに話しておきたいことがあるの」


 その場の空気が、ふと静まる。


「……新しく起きた、“ピンチ”のことなんだけどさ」


「ピンチ?」


 ユウカが静かに問い返す。


「うん。……二つ、あるんだ」


 少しだけ肩をすぼめて、ナナは指を二本、ぴんと立てる。


「まず一つ目はね――」


 一拍、間を置いてから、声のトーンを落ち着ける。


「今年のありがとう祭、来場者が……去年の倍。いや、倍どころじゃないかもしれないってこと」


「そんなに……?」


 ナナは「うん」と短くうなずく。


「今年、ハチマンコーヒーの利用者数が、じつは三倍くらいになっててさ。

それで、“ありがとう祭も楽しみにしてます”って声、ほんとに増えてるの。びっくりするくらい」


 明るく笑ってみせるが、すぐに表情を引き締める。


「――つまりね」


 声を少しだけ下げる。


「スタッフも、三倍、四倍に増やさないと、正直ちょっと危ないかも、ってこと」


 静かに言いながら、二人の顔を見渡す。


「もちろん、基本はこっちでなんとかするつもり。

でもね、もし手伝ってくれそうな友達がいたら、声をかけてもらえると、すごく助かるんだ……ほんとに」


「わかりました」


 ユウカが、即答する。


「で、もう一つのピンチなんだけど……」


 ナナは、少しだけ言いよどんでから続けた。


「文化の日、昭和の町でもね、大きめのイベントがあるの。けっこう人が集まりそうなやつ」


 そこまで言って、ちょっとだけ肩をすくめる。


「で、その取材に来る、テレビのクルーがいて……」


 少し声を潜めるように続ける。


「なんか、その取材が終わったあと――ハチマンコーヒーにも、来ることになったみたい」


「えっ」


 アキラが、思わず声を上げる。目がぱちりと見開かれていた。


「実はまだ時間は聞いてないんだけど、たぶんね、発表会の時間帯……かなって思ってる」


 アキラの顔に、みるみる緊張が走る。


「大丈夫だよ、アキラちゃん。発表者が集まらなかったとしても、私が代表として話すから。

発表会は、ちゃんと“成立”させる。だから、安心してね。

今できることを、最後まで……一緒に、頑張ってみよう?」


 ナナは、まっすぐにアキラを見て言った。


「……はい」


 アキラは、黄色いマーカーだらけのリストを、ぎゅっと抱きしめるようにして、小さく頷いた。


 そのとき、ユウカがそっと顔を上げた。


「ナナさん……たぶん、ピンチは、二つじゃありません」


「え?」


 ナナが目を瞬かせる。


 ユウカはノートを開きながら、少し迷うように口を開いた。


「……まず、来場者が増えたら、スペースが足りなくなると思います。

今の駐車スペースを会場にも使うなら、周辺に広めの臨時駐車場を確保しないといけません」


 ナナは真剣に頷く。


「あと……机や椅子も、足りません。

自治会や公民館の備品でまかなうなら、数と搬入方法を早めに確認した方がいいかと」


 一呼吸おいて、ユウカは続けた。


「週間天気予報を見ると、当日、曇り時々雨の可能性もあります。

テントが必要になるかもしれませんし、備えがないと飲食ブースの運営にも支障が出ます」


「……うん、たしかに」


「あと、設営にかけられる時間も……当日の午前中だけですよね。

前日は平日だから会場が使えないし、物の量が増えると準備も圧迫されます」


 場の空気が急に重くなった。

 ユウカは、そっとナナの表情を見たあと、最後にもう一つ、声を落として言った。


「……それと、宮本さんや下瀬さんのように、高齢の方もいらっしゃるので……ナナさん以外に、もう一人看護師さんがいてくださると、より安心できるかもしれません」


ナナは、一瞬だけ、どこかを探すように視線を泳がせ、それから、静かに深くうなずいた。


「……そこまで考えてくれて、ありがとう。ほんとに助かる」


少しだけ息をついて、ぽつりと漏らした。

「ピンチ、たくさんあるね」


 ユウカは、小さく笑って目を上げた。


「……まだ、間に合うと思います。

だから、できれば今日明日で、計画を立て直した方がいいと思います」


 ナナは、口元を引き締めながら、しっかりとうなずいた。


「……よし。やってみようか。まずは会場図を見直して、必要な人数と物資を洗い出して……」


「順番に整理していきます」


 ユウカが即座にノートに書き込み始めた。


 ナナとユウカは、そのままその場で、次々と作戦を立て始めた。


 アキラは、その様子を見つめながら、

 そっと立ち上がろうとした。


 すると、ユウカがやさしく声をかけた。


「アキラ、ここは任せて。

……私、準備してたときにね、ここで出会った人たちのことが、たくさん浮かんできたの。

みんな、祭を楽しみにしてくれてて、応援してくれてた。

……私もアキラを応援したい。

アキラちゃんが、届けたいって思う発表会を、私も見たい。

一緒に、ありがとう祭を成功させよう」


ユウカの言葉で、アキラが顔を上げる。


「……うん」


 アキラは、再びリストを握りしめ、小さく息を吸い込んだ。


——ありがとう祭まで、あと少し。


 それぞれの場所で、必死の準備が続いていく。

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