第十九話 重なり合う、ホーム

 風がやや冷たく感じられる、十一月三日の文化の日。


 空は、淡い水色にやわらかな雲を浮かべていた。

 西叡山の山肌は、ところどころ秋の色に染まりはじめている。

 ハチマンコーヒーの近くを流れる桂小川のせせらぎが、かすかに耳をくすぐった。

 土手の彼岸花が誰にも気づかれず、風にそっと揺れていた。


 町全体が、まだ目を覚ましきっていないような、そんな朝の静けさだった。


 一拍、時間が止まる。


——誰もいないハチマンコーヒーの店内。


 壁にかけられた“渡し鳥”の絵。

 その鳥が、ふいに羽ばたいたような気がして。

「カカッ、カッ……」と、声が耳の奥に響く。


 バサバサッと羽音をたてながら、鳥は絵から抜け出して、店内を旋回した。


 (……捕まえなきゃ)


 そう思う間に、鳥は開いた入り口からふわりと飛び立っていく。

 屋根の上を、ゆっくりと円を描くように舞いながら。


「カカッ、カッ……」


「……お姉ちゃん!」


——その静けさを切るように、音が響いてくる。


 キッチンの奥から、鉄鍋を煽る「カン、カン、カン」という音。

 ジュウ……とソースが焦げる音が重なり、香ばしい匂いが鼻をかすめた


 包丁がまな板をリズミカルに叩く。

 トントントントン、と、ネギを刻む音が小気味よく続く。

 グラインダーが唸り、コーヒー豆を挽く。スチームウォーマーが、キュウッと高く鳴く。

 製氷器からは、氷がガチャガチャとすくわれる音。


 気がつくと、目の前にサクラがいた。

 店内を見渡すと、ホールでは、笑い声と話し声が入り混じっていた。


「わあ、これ初めて食べる!」「ほんとのやせうまって、こんな味なんや」

「こんにちはー」「元気だった?」「ここ、よく来るん?」


 子どもたちの声、大人たちの声、聞き覚えのある名前を呼ぶ声が、にぎやかに重なっている。

 その合間に、少しゆったりとした京言葉が、やわらかく響く。


「……健康って、自分だけのもんやないんです」

「家族にも、まちにも、つながっていくから。あなたの元気が、誰かの元気にもなります」


 ユウ先生の落ち着いた声が聞こえていた。


「お姉ちゃん!」


 その声に、はっと我に返った。

 サクラが、カササギのぬいぐるみを抱えて立っていた。

 まっすぐな目でこちらを見ている。


「……やっぱり昨日、寝てないでしょ。ちょっと休んだら?」


 私は、受付の横の椅子で、いつの間にかうとうとしていたみたいだった。


「……大丈夫、大丈夫。一瞬、眠気が来ただけだから」


「無理したら、みんなに迷惑かけるよ」


 そう言いながら、サクラはカササギのぬいぐるみを差し出してきた。


「これ、受付に置いとけば? 昨日、お姉ちゃんが絵描いてるとき、ずっと見てたでしょ」


 一瞬、何のことかと思ったけれど、思わず笑みがこぼれてしまった。


「……もう、そういうとこ、ほんと反則」


 ぬいぐるみを受け取りながら、私は肩を軽くすくめた。


「ありがと、サクラ。さすが動物オタクの妹、見るとこ違うよね」


「オタク言うな」


 サクラはむすっとしながらも、ぬいぐるみを押し込むように渡してきた。


「今日はどんな感じになりそう?」


「うん、ありがとうカード書いてくれる人も多いし、発表会も順調に進みそう。たぶん、ね」


「そっか……じゃあ、私も書いてみようかな」


 そう言うとサクラは、受付の机からカードを一枚選んだ。

 紫色の地に、銀の羽根が一枚描かれている。


「この羽根、カササギだよね」


「うん。新しくなったカードの第一号だよ。……昨日、ギリギリで届いたの」


「ふふ、間に合えば、全部OK」


 すぐ隣に立っていた母が、静かに笑いながら言った。

 その声に、ハルはふっと肩の力が抜けるのを感じた。


「ハルの絵も、間に合ったじゃない。喜んでもらえそうね」


「うん……ありがとう。あとは、最後まで頑張る」


「うん、突っ走るのよ。Show must go on」


「そうだね」


 展示スペースの壁には、たくさんの緑色のカードが並んでいた。

 一枚一枚に、“見つけたありがとう”の言葉と、ありがとうの香りがする写真が添えられている。


 中央には、渡し鳥の絵が飾られていた。


 まるでその絵を包み込むように、カードと言葉が寄り添っている。

 緑の羽根のようなメッセージと、やわらかな香りをまとう写真たち。

 それらが静かに輪をつくり、まるで鳥の巣のように、渡し鳥をやさしく守っていた。


 健康講座が終わったあとも、ユウ先生や小山先生のまわりには人だかりができていた。

 地域の人たちが質問を投げかけたり、料理の話で盛り上がったり。

 いくつもの笑い声が、輪を描くように広がっていく。


 会場の片隅では、ユウカとアキラが肩を寄せて立っていた。

 私は、少し残る眠気を振り払うように頭を軽く振って、ふたりに近づいた。


「ユウカ、お疲れさま。すごく盛り上がってるね」


 ハルが笑顔で声をかける。


「ありがとう。先生たちのおかげだよ。私も、すごく勉強になった」


 ユウカが、少し照れくさそうに笑った。


「よかった。……で、アキラは今、完全に緊張モード入ってるよね」


 私は横目でアキラを見た。


「そりゃするよー。無理して出てくれる人に、絶対、嫌な思いはさせたくないもん。頭、フル回転中」


 アキラは深く息を吸って、表情を引き締めた。


「発表者の皆さん、来てくれてる?」


 ユウカが心配そうに尋ねる。


「うん、全員確認済み」


 そう答えながら、アキラはユウカに進行用のリストを手渡した。



《ありがとう発表会・発表者リスト(進行用)》

1. アユさん(インドネシア出身・看護師・30代)

 ——「言葉が通じなくても、伝わる“ありがとう”」


2. 河野 裕子(かわの・ゆうこ/70代・地域ボランティア)

 ——「みんなに支えられて」

 

3. 山口 彩乃(やまぐち・あやの/高校1年生)

 ——「泣いてる友達に、手をのばした日」


4. 永山 典子(ながやま・のりこ/40代・保護者代表)

 ——「子ども食堂、おにぎりと、朝の笑顔」

 

5. 永山 勇太(ながやま・ゆうた/小学5年生)

 ——「おじいちゃんが教えてくれた自転車修理」


6. 安藤 久美(あんどう・くみ/60代・元教師)

 ——「生徒からの手紙、言えてなかった言葉」



「たくさん来てくれて、よかったね」


 私は胸をなでおろすように言った。


「ほんと。アユさんも、ボラ部のみんなも、すごく助けてくれて」


 アキラがリストを見つめながら、ほっとしたように息をついた。


「……それにしても、ハルの絵。すごくよかったよ」


 ユウカが、ふと壁に視線を向ける。


「ありがと。昨日の夜は、ほんとにやばかったけどね。なんとか間に合った」


 私は苦笑して、肩をすくめた。


「発表、楽しみにしてるね」


 その言葉に続くように、ナナさんがゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 表情はいつものように明るいけれど、どこか目の奥に高揚と緊張が入り混じっているようにも見えた。


「みんな、おつかれー!

うんうん、なんか……いい感じじゃない?」

ナナさんはにっこり笑ってから、会場をぐるりと見渡した。

「……ねぇ、ほんとに、すごいイベントになったね」


「ナナさんのサポートがなかったら、ここまで来られませんでした」


 ユウカが、ほんの少しだけ頭を下げるようにして言った。


「やだもう、そんなこと言わないでよ〜。現場で走り回ってるみんなが、いちばんすごいって!」


 ナナさんはそう言いながら、ポケットからスケジュール表を取り出した。


「で、この後の話なんだけど……テレビのクルー、いま絶賛移動中らしくて。たぶん、ハルちゃんの発表が終わる頃に着いちゃう、らしい!」


「ありがとう発表のタイミング……かぁ」


 アキラが、ぽつりとつぶやいた。


「みんな、緊張しないといいけど。わたしも……けっこう心臓バクバク」


「大丈夫。あとは予定通り、やるだけだよ」


 ユウカが、やわらかく微笑みながら言った。


 ナナさんは、少しだけ空を見上げて、ふわりと笑った。


「せっかくだからさ、“ありがとう発表”がテレビに映って……

“あ、なんか、いいかも”って思ってくれる人、いたら嬉しいよね」


 その言葉に、三人は自然と頷いた。


——いよいよ、クライマックスが近づいてくる。


 笑顔と話し声、そして食べ物の匂いが、会場いっぱいに広がっていた。

 その空気が、ナナさんのアナウンスに導かれるように、少しずつステージへと集まっていく。


 ざわめきが、すこしずつ、静まりはじめた。


 私は、ひとつ息を整えて、マイクの前に立つ。


「みなさん、こんにちは。

高田高校二年、美術部の広瀬晴です。

今日は、この絵の紹介をさせていただきます。


タイトルは、『渡し鳥』です。


この鳥は、“ありがとうカード”を運ぶ鳥として描きました。


ハチマンコーヒーには、伝えたい人にメッセージを書いて渡す“ありがとうカード”があります。

もらった人が次の誰かへと“ありがとう”を渡し、四人の手を経て、またカフェに戻ってきます。

そうして描かれた“ありがとうの旅路”を、ここでみなさんに見ていただけるようになっています。


長い旅を経て戻ってくるその姿が、まるで渡り鳥のように思えて。

“ありがとう”を運ぶ鳥——それが、『渡し鳥』という名前の由来です。


モチーフにしたのは、カササギという鳥です。

七夕の伝説では、織姫と彦星に橋をかける“メッセンジャー”として知られていて、

羽が光の加減で青く見えることもあり、“青い鳥”のイメージにも重なりました。


……じつはこの鳥のアイデアは、動物が大好きな妹が教えてくれたものです。

ありがとうカードのモチーフにぴったりだと思って、描きました。サクラ、ありがとう。


羽根には、赤や緑、黄色や青……いろんな“ありがとう”の色をのせました。

想いが羽根に込められて、空へと旅立っていくような……そんなイメージです。


今回、この“渡し鳥”をもとに、ありがとうカードも少しリニューアルしました。


紫色のカードには、四人の手を渡る“渡し鳥”の羽根を。

緑のカードには、まだ巣立つ前の“ひな鳥”の羽根を、小さくあしらいました。

こちらは、メッセージを書いて、ハチマンコーヒーに掲示していただく用のカードです。


これから、この町のいろんな“ありがとう”が、鳥たちのように羽ばたいて、

またこの場所に戻ってきてくれたら――とても嬉しいです。


ご清聴、ありがとうございました」



丁寧に頭を下げ、私はゆっくりとステージを降りた。

 会場にはしばしの静けさが流れ、それから──温かい拍手が、やさしく広がっていった。


拍手が完全に収まるよりも早く、空気は次のプログラムへと切り替わっていく。

 ありがとう発表会へ向けて、場の熱が少しずつ再び立ち上がる。


 ステージ脇では、アキラが発表者たちに声をかけながら、順番と内容の確認を進めていた。

 その表情は落ち着いて見えるけれど、スカートの下の脚が、かすかに揺れている。


 そのとき――

 会場脇の道路に、黒い車が停まった。

 スーツ姿の男性たちが次々と降りてくる。市長と随行の職員たちだった。

 周囲の市民がさざめく中、彼らは軽く会釈しながら、ナナさんのもとへと歩いていく。


「今日は本当に大盛況ですね。心からお祝い申し上げます」


「ありがとうございます。お忙しい中、こうして足を運んでいただけて、とても心強いです。

このあと、地域の皆さんによる“ありがとう発表会”が始まります。

テレビの取材も入ってまして……よろしければ、ぜひご覧ください」


「それは楽しみですね。私も、しっかり拝見させていただきます」


 軽く会釈を返しながら、市長は静かに来賓席へと歩いていった。


 その直後、白いワゴン車が会場の近くに滑り込むように停まり、三人ほどの取材クルーが慣れた手つきで機材を抱えて降りてきた。


「すみませーん、ナナさん、いらっしゃいますか?」


 その声に、ナナとユウカが顔を見合わせて駆け寄る。


 先頭にいたのは、黒いシャツにラフなジャケットを羽織った若い男性だった。さわやかな笑顔の奥に、現場の空気を素早く読んでいくような目の鋭さが光っている。


「お待たせしました。大分みらいテレビの竹下です。今日はよろしくお願いします」


 ナナさんはすぐに笑顔で応じた。


「わあ、ありがとうございます。こちらこそ、来ていただけて本当に嬉しいです!

ちょっと現場がバタバタしてて……ご迷惑にならないといいんですが」


「いやいや、ぜんぜん大丈夫です。天気もいいし、すでにいい雰囲気ですよ。ワイドで押さえたい感じです」


 そう言って、竹下さんはステージ周辺とカメラアングルをさっと見渡した。


 竹下さんは、機材を担いだスタッフたちに手際よく指示を出しながら、ナナさんが差し出したスケジュール表を軽く目で追った。


「お電話でもお伝えしましたが、夕方のニュースで“地域の力、日本の宝”という特集を組んでまして。今、昭和の町や豊後高田の地域活動を追ってるんです。高校生と地元カフェの共同企画なんて、かなり注目してます」


 ナナさんは、小さく息を整えたように笑みを浮かべた。


「わ……ありがとうございます。これからちょうど、“ありがとう発表会”が始まるところなんです。

会場の空気……伝わるといいな。

——よかったら、そのまま、感じたままを撮ってください」


「なるほど、了解です。もし、発表の合間に少し時間がとれそうでしたら……主催のナナさんと、高校生代表の方に、簡単にインタビューさせていただけると助かります」


 ナナさんは一瞬ユウカに目をやり、それからうなずいた。


「はい、大丈夫です。……私たちも、ちゃんと伝えたいと思っているので」


竹下さんは、笑みを絶やさぬまま、小さな手帳にペンを走らせた。


「初開催って聞いてたんですけど……想像以上ににぎやかですね。正直、“いい絵”が撮れそうだなって思いました。ありがとう発表会、楽しみにしています」


 ナナはうなずいた。けれど、その笑みに、ほんのわずかに影がさしたようにも見えた。


「……あの、内容はとても素朴で、たぶん、“派手な絵”にはならないかもしれません。

でも……どうか、よろしくお願いします。

それと……発表の中には、個人的な話も混じっていて。

できれば、放送の前に――本人に、一度だけ確認を取らせてもらえると、助かります」


 竹下は、一瞬だけまばたきをして、手の動きを止めた。


「……あ、なるほど。はい、もちろん。事前に確認できるように調整します」


その声には、さきほどの軽やかさとは少し違う、わずかな硬さがにじんでいる。


ナナさんは笑っていたけれど――私は、少しだけざらっとした。


大人たちの言葉が、どこか噛み合っていないような気がして。

そのわずかな隙間に、不安がふと、忍び込んできた。

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