第十六話 重なる紅葉、十月
制服の衣替えが、ようやく終わりそうな十月の初め。
中間試験も、今日でようやく終わる。
試験勉強のあいだも、ありがとう祭のことがずっと気にかかっていた。
でも、余裕なんてまったくなかった。
準備に時間をかけたぶん、勉強の時間は短くなって、本当にギリギリだった。
ありがとう祭をやろうと決めてからの毎日は、慌ただしくて、気づけばあっという間に過ぎていた。
私も、自分のことで手一杯で、二人とゆっくり話す時間もなかった。
アキラもユウカも、休み時間はずっと勉強していたし、放課後はすぐに姿が見えなくなる。
まあ、私も同じだったけど。
放課後。
私はユウカの席へ向かい、アキラにも声をかけて、三人で集まった。
「テストも終わったし、ここからが本番だね。ありがとう祭の準備、進んでる?」
アキラは口をつぐんだまま目を伏せていて、代わりにユウカが答えた。
「私のほうは、ユウ先生がいろいろ手伝ってくれてて……。これから発表の内容をまとめるところ。時間ないから、ちょっと焦ってるけど」
ユウカの目の下には、くっきりとクマが浮かんでいた。
その顔を見ただけで、胸の奥がざわついた。
アキラは視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
目元が、ぎゅっとかすかにゆがんでいた。
スカートの裾を握る指先が、わずかに震えているのが見えた。
やがて、顔を上げる。
まっすぐに私たちを見て、小さな声で言った。
「……私、まだ一人も発表者が決まってないの。
正直、かなりヤバいかも。ちょっと、プログラムの変更も考えなきゃって……。相談、させてほしくて」
涙を見せないように、必死にこらえているのが伝わってくる。
だからこそ、胸が苦しくなる。
「……ごめん。私がやりたいって言って、みんなを巻き込んじゃって」
「ハル、ちがうよ」
アキラがすぐに首をふった。
その声には、にじむものがあった。
「これは、私がやりたくてやってることだから。
だから……そんなふうに言われたら、悔しいよ」
「……ごめん。でも、もし何か手伝えることがあれば」
「ハルは? 絵、できたの?」
アキラは思わず立ち上がり、まっすぐこちらを見つめて問いかけた。
「……まだ。正直、何を描くかも決められてない」
「でも、描くって決めたんだよね? だったら、ちゃんと向き合おうよ。
私の企画も、止めるとしても、自分で決めたいから」
「……うん」
ユウカが、静かに言葉を継いだ。
「ハル。私たち、それぞれ“やりたいこと”を言葉にして、覚悟を決めたよね。応援し合おうって。
今、ハルがアキラを手伝うのは……たぶん“応援”とは違うと思う」
「……」
「ね。何にしても、一度、ハチマンコーヒーでナナさんに相談しよう。
プログラムを変えるにしても、もう時間がないし……ちょうどテストも終わったところだしね」
ユウカの落ち着いた声に背中を押されて、私たちは三人でハチマンコーヒーへ向かった。
夕方の、少し落ち着いたハチマンコーヒー。
私たちは「暮らしの保健室」の中で、ナナさんに状況をぜんぶ話した。
「なるほどねー。で、みんなで思ってることを話してたんだね。うんうん。で? どうするの?」
ナナさんは相変わらずの調子で、でも、目だけは真剣にこちらを見ている。
「ハルちゃんは?」
「……みんながやりたいなら、このままやりたい。
でも……一緒にやりたいって言ってくれた、アキラやユウカには、“やってよかった”って思ってもらいたくて」
「うん、わかる。……アキラちゃんは?」
「私も、ハルの応援はしたい。でも……私の企画は、ちゃんと私が決着つけたい。……ハルの絵、私は見たいと思ってる」
「うん。……で、ユウカちゃんは?」
「私は……ふたりのこと、すごく応援したい。でも、私も、自分の企画、ちゃんとやりたい。
……やりたいことを、自分の言葉で話したいから」
「うん。私もね、みんなの“仲間”だと思ってるから……今日は、私の気持ちも話していい?」
少しだけ目を伏せてから、でもすぐに顔を上げて、にこっと笑う。
「正直、みんなが手伝ってくれるの、ほんとに嬉しかった。
ハルちゃんがきっかけだったけど、私も……なんだろう、去年より、もっといろんなことにチャレンジしたくなってるの」
ナナさんは椅子の背にもたれて、ひと呼吸おいた。
「でもね。それが幸せなのは、“自分で決めたから”なんだと思う。
巻き込まれるって言えば、たしかにそうなんだけど――
“巻き込まれることを、自分で選んだ”って思えてるから、私は今、幸せなの。……あ、ていうか、そもそも最初に巻き込んだの、私か」
言ってから、くすっと笑う。
「……ごめん。ちょっとだけ、語っちゃうね。
私が“コミュニティナース”になった理由、話してもいい?」
私たちを見渡し、少し声を落とす。
「病院にいた頃ね、いろんな人と出会ったの。
シングルマザーで、重い病気が見つかったお母さん。
家族のために必死に働いて――気づいたときには、もうだいぶ進んでたお父さん。
それから、誰にも頼れず、孤独をひとりで抱え込んでたお年寄り……」
ナナさんの言葉が、静かに胸にしみてくる。
「“もっと早く気づけてたら”って思うこと、ほんとにたくさんあった。
もっと幸せな時間を過ごせたかもしれないのに、って。
でもね、不調って、みんな“わかってても動けない”こと、多いんだよね。
自分を後回しにしちゃったり、“気のせい”にしちゃったり。
最初は症状が見えづらいから、どんどん進んじゃうこともある。
でも、誰かに話すことで、“あれ、やっぱりおかしい”って気づく人もいる。
だから、私ができることって――最初は結局、“ただ話を聴くこと”だったりするの。
言葉にしてるうちに、自分で気づいてくれることがあるから」
いくつもの顔を思い出しているようなナナさんの表情には、
いくつもの別れが、いまの彼女をここに立たせていることを静かに語っていた。
「もちろん、私が知ってることは伝えるし、人を会わせてつなぐのも、大事な仕事。
本当に弱ってる人には、きちんとサポートにもつなげたい。
でも――
その人を幸せにするのは、その人だけ。
私は、ずっとそう信じてる」
ナナさんは、もう一度私たちを見つめる。
「……でもね、今もまだ、自信はないよ。
本当に役に立ててるのか、ほんとの意味で、誰かの力になれてるのか……って。
だから、私もチャレンジしてる。
“コミュニティナース”って肩書きも、“ハチマンコーヒー”って居場所も、“ありがとう祭”も――
どれも、私が“自分の幸せのために”始めたチャレンジなんだ。……だから、みんなも。
“やってみたいから”って気持ちで、いてくれてたらいいなって、思ってるよ」
ナナさんの言いたいことは、なんとなくわかる。
でも、自分じゃどうにもできないことで悩むアキラを見るのは、つらかった。
「……でも、アキラも辛そうだし、ユウカも」
「それは、ハルだって!」
アキラが、少し強めに言い返す。声は揺れていたけれど、その奥にちゃんと温かさが宿っていた。
ナナさんが、柔らかな笑みをこぼす。
「え、なに? 三人とも、ギブアップしたい感じ?」
「しない!」
三人の声がぴたりと重なった。あまりにタイミングがぴったりで、思わず笑いそうになる。
ナナさんは肩をすくめながら、吹き出した。
「うん。テストも終わったし、あと三週間だけだし。だったら、チャレンジしようよ。みんなが後悔しないようにね」
アキラが、そっと肩を落とした。けれど、すぐに口を開く。
「……でも」
ナナさんがやわらかく目を向ける。
「まだ声かけてない人、いるんでしょ? やらなかった後悔って、あとでじわじわ来るんだよ。……もったいないじゃん」
「……はい」
アキラが、小さくうなずいた。
「じゃあ、やろう」
ナナさんの声は、まるで春の陽だまりみたいにあたたかくて、不思議と力が湧いてくる。
「それとね。これから三人で、毎日ちょっとだけでもお互いの進捗を話そう。悩みでも、ぐちでも、なんでも。いい?」
「……そうします」
私は、アキラとユウカの顔を順に見て、うなずいた。
「オッケー」
ナナさんが立ち上がると、両手を広げながら、おどけて言う。
「じゃ、円陣組む? ……あ、いらない? じゃ、乾杯にしよっか」
その調子に、アキラがふっと吹き出した。
「そっちがいい」
私も自然に笑っていた。
「えっと、コーヒーと、カフェオレと、レモンティーだっけ?」
ナナさんがそう言ってカウンターに戻ろうとした、そのときだった。
「おっと……!」
軽くつまずいて、片足を浮かせる。
「あちゃー、寿命かー。お気に入りだったんだけどなー」
右足の青いローファーを手にとって、ぶら下げる。かかとの部分が、ぱっくり割れていた。
「ちょっとナナさーん、それってなんか縁起悪くないですかー?」
アキラが冗談っぽく眉をひそめる。
「失礼な! これは私の“幸運の靴”だよ?」
ナナさんは、むっとしたように見せてそう言い返し、それから少し間をおいて――いたずらっぽく笑った。
「“オズの魔法使い”ってさ、ドロシーが旅の終わりに、ずっと履いてたルビーの靴を鳴らすと家に帰れるって話、知ってる?
……私、あの場面がすごく好きなんだ。
“答えはずっと、自分の足元にあった”っていうのが――
なんかね、コミュニティナースって、それにちょっと似てる気がするんだよね」
言いながら、手にした靴をぽんぽんと軽く揺らす。
「でも、それって赤い靴でしょ? これは……青だけど」
ユウカが小声でつぶやくと、ナナさんは得意げに胸を張った。
「そこは、オリジナリティでしょ? ってか、真っ赤な靴を普段使いできる年じゃないんで」
肩をすくめてから、手にした靴をもう一度見つめる。壊れたかかとを親指でなぞりながら、少し声を落とした。
「……でも、これは魔法の靴だったの。たくさん歩いて、たくさん笑って、いろんな人と出会えた。
だから、また次の“魔法の靴”を探さないとなー」
やらなかった後悔は、あとから静かに押し寄せる。
“答えは、きっと自分の中にある。”
――私が「伝えたい」って思ってること。
まだ、はっきりとした形にはなっていない。
でも、「ありがとう」がめぐる世界のイメージは、
ずっと、私の心の中にあった。
なら、きっと描ける――。
家に着く頃には、空の色が少しずつ変わりはじめていた。
もうすぐ、夕闇が町を包む。
ようやく疲れを思い出し、早く寝てしまいたい……そんな気分だった。
玄関の前に差しかかると、妹のサクラが軒先を見上げていた。
「どうしたの?」
「もう出発したのかな。ツバメ」
「ツバメ? ああ」
見上げると、ツバメの巣は空になっていた。
「また戻ってくるのが楽しみだね」
「同じツバメが帰ってくるの?」
「同じとは限らないけど……だいたい七分の一くらいは、帰ってくるって言われてるよ」
「へえ、どこまで行くの?」
「南の島の方まで」
「そんな遠くまで行って、また帰ってくるんだ。すごいね」
「渡り鳥だからね」
ふわっと風が、頭の中を通り抜けていった。
張りつめていた疲れが、ほんの少し軽くなった気がする。
遠くまで行っても、年に一度、帰ってくる――。
私の心の中に、ぼんやりとたまっていた雲を突き抜けて、一筋の光が差し込んだ気がした。
そうだ、ありがとうカードのモチーフは、渡り鳥だ――そう思った。
「ありがとう、サクラ!」
私は疲れを忘れ、駆けるように二階へ上がった。
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