はじまり

「えっどこへ?」

彼はいたずらっぽくウインクして、手を差し伸べ、私を外までエスコートした。どうして素直についていったのか私にもわからない。外に出ると、大きくて、星の光をちりばめたような、夢のように立派なそりが停まっていた。子供のころ絵本やなんかで見たようなトナカイがひいている。彼は私をそこに乗せると、空へとそりを上げた。

夜は12時をまわっていた。今日は、24日、だ。

彼は振り返って私に言った。

「メリークリスマス!」

そうだ、今日はクリスマスイブ。急な展開に戸惑いは収まらないが、私も返す。

「メリークリスマス」

彼は嬉しそうに、ほっほっほう、と笑って、そりのスピードは上がった。私は街の夜を見ていた。


着いたのは、夜明けだった。彼がそりを停めたのは、周りのシャッターの閉まった小さな店先。シャッターが半分だけ開いているドアの向こうから、軽やかな人の動きと明るい光が漏れていた。彼はためらわず中へ入っていく。私もついていくしかなかった。

奥に入れば、心の奥が満たされるように優しい匂いがした。

そこでは、ステンレスが鈍く光るテーブルで、女性がケーキのスポンジを焼き上げたところだった。女性はこちらを振り返って、彼とそっくりに笑った。

「はじめまして。」

「わしの妻じゃ。」

彼はそう紹介した。

不思議な光が辺りを包むなか、私はなぜか、何かしらの安心感を覚えていた。子供のころ、微睡みの中で知らないはずの町を見たような。本来なら、クリスマスイブというはしゃいだ日の朝に、こんなよくわからないところにいることに、不安や恐れを感じてもいいはずなのに。

彼は私に向き直って言った。

「ここで一日、手伝って働いてはくれないか。」

働く?1日ここで?

「今日ですか?」

すっとぼけたことを聞いた私に、彼は頷いた。

働く…。家の手伝いだってろくにしたことがない私に何ができるのだろうか。

でも私は、働かないか?ではなく、働いてくれないか?と聞いてくれた彼の目が、中学の頃のあの数学の先生のようなやさしい瞳と重なって、断れなかった。いや、断わりたくないと思った。

「はい…。」

他になんて言えばいいのか分からずに、それだけを言った私は、あとになってみて思えばずいぶん失礼な子だったろう。せめて、「よろしくお願いします。」の一言でも言うべきだったものを。

彼は、当たり前だけどクリスマスの仕事があるようで、奥さんに私を任せて行った。これが当たり前と思えてしまう辺り、私の感覚も昨日の夜から麻痺しているらしい。ここにきてはじめて気づく。そして驚いた。『ほんとにサンタがいるなんて!』

奥さんは、いや、ミセス·クロースと呼ぼう、ミセス·クロースは、優しいふんわりした雰囲気の女性だった。彼が、ホットチョコレートなら、彼女は蜂蜜入りのホットミルクのようだった。年は、いくつなのか見当のつかない容姿で、穏やかなおばあちゃんのようにも、若いお姉さんのようにも思えた。

新しい空気を吸い込む深呼吸の音が聞こえる。今日が始まるぞ!というような。ひとつの息を置いたあと、ミセス·クロースは言った。

「それでは、はじめましょうか。」


そして今日が、はじまった。








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