記憶

記憶というのは案外脆い。

昨日食べた昼食すら曖昧で、

部屋の隅に置いてあったはずのカバンの位置すら思い出せない。


だが今朝の“違和感”は、忘れられなかった。


音声入力の件。

鏡に映らなかった“自分”。

香水の匂い。

そして、メモ帳に残された見知らぬ文字。


あれは――誰の言葉だったのか。


ノートパソコンを立ち上げて、日記アプリを開く。

自分は毎日、簡単なメモをつけている。

「何時に起きたか」「何を食べたか」「誰と話したか」。

主に精神の調子を確認するため。

医師にも勧められた習慣だった。


7月7日:晴れ。カレーうどん。洗濯。近所の子がうるさかった。

7月8日:曇り。冷やし中華。宅配便受け取った。昼寝した。

7月9日:晴れ。窓が開いていた。鍵をかけ忘れたかも。カレーの残り。変な夢を見た。


そして――

7月10日:雨。午前5時に起きる。寝覚めが悪かった。歯ブラシが濡れていた。誰かが使った?


7月11日:曇り。朝、枕が濡れていた。鼻血か?

7月12日:晴れ。目覚めたとき、腕に爪の痕のようなもの。

7月13日:記憶にない夢を見た。“彼女”がいた。

7月14日:曇り。朝、ベッドの足元が濡れていた。花瓶を倒した?覚えてない。

7月15日:起床時、左手小指に擦過傷。思い出せない。


どれも、思い出せない。

思い出そうとするたびに、頭の奥がしんと冷たくなる。

氷水を流し込まれるような感覚。


そして、7月16日――

今日の欄には、すでに文字が打たれていた。


《起床時、違和感。彼が気づき始めている。

でも大丈夫、次は“私”が書く番だから。》


書いた覚えはない。

だが、アプリの編集履歴には自分のアカウント名が残っている。


タイムスタンプは、午前3時44分。


寝ていたはずの時間。


スマホを確認する。

メモ帳にはもうひとつの書き込みがあった。


《やっぱり君には向いてないと思う。

でももう少しだけ試させて。》


――誰が?


視界の端で何かが動いた。

顔を上げる。

部屋には誰もいない。

だが、PCの画面に映る“自分”が、少しだけ笑った気がした。

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