鍵
翌朝、外は薄曇りだった。
雨が降りそうで降らない空の下、いつも通りにシャツに袖を通し、ネクタイを締める。
昨夜のことは、夢だったのかもしれない。
けれど、日記には――確かに、書いた。
《窓は閉めた。鍵もかけた。》
それでも、窓は開いていた。鍵も、かかっていなかった。
「……鍵が緩んでたのかもしれないな」
そうつぶやいて、苦笑いをひとつ。
鍵が壊れているのかもしれない。そう思い直すことにした。
出勤前に、鍵を確かめる。
一度、開けて、閉める。
もう一度、開けて、閉める。
「ガチャン」と音がするたびに、心の奥で何かが納得していく。
これで、大丈夫だ。
今日から、スマホでも記録をつけることにした。
鍵を閉める様子を動画で撮る。
録画したファイルには、日時が入る。
自分の手が、鍵を閉める様子が映っている。
これで、証明できる。
自分がちゃんと閉めたことを、明日の自分に説明できる。
仕事中も、どこか気がそぞろだった。
上司の声が、かすかに遠い。
となりの席の同僚が、何かを話しているけど、言葉が頭の上を通り過ぎていく。
「最近さ、うちの隣の部屋、また人変わったっぽいよ」
その言葉だけ、なぜか耳に残った。
「え? 隣って、302の?」
「あんたの部屋、303でしょ。そっちの隣。最近やたら物音しない?」
そう言われて、はっとする。
言われてみれば――昨夜、寝る前に小さな物音を聞いた気がする。
けれど、それが何の音だったのか、思い出せない。
気のせいだと思っていた。
「どんな人?」
「わかんない。朝早く出て、夜遅く帰ってくるみたい。顔も見てない。女性っぽいけどね」
なんとなく、その話が心に残ったまま、仕事を終えた。
電車に揺られながら、スマホの中の録画を確認する。
午前7時58分。鍵を閉めた記録。
たしかに、自分の手が鍵をガチャンと閉めている。
「証拠はある。今日は、間違いない」
◯
帰宅したのは21時過ぎだった。
廊下を歩いていると、となりの302号室のドアの前に、傘が立てかけられていた。
赤いビニール傘。コンビニのものだろうか。
明かりは点いていない。気配もない。
気にする必要はない、と思いつつも、視線を逸らせなかった。
部屋の前まで来て、ポケットから鍵を取り出す。
ふと、指が止まる。
ドアの前の床に――何か落ちていた。
小さな紙片だった。
誰かが落としたメモか、それともチラシの切れ端か。
そう思って拾い上げた瞬間、背筋が凍る。
それは、自分の字だった。
見覚えのある、乱れた走り書き。
昨日、日記に書いた文字と同じだった。
《窓は閉めた。鍵もかけた。》
その一行だけが、まるで切り抜かれたように、紙の中央に書かれていた。
どうして――?
誰がこれを?
手が震え、紙を落としそうになる。
胸が早鐘のように打ち始める。
誰かが、日記を読んだ?
部屋に、誰かが入った?
いや、それよりも、どうしてこの紙が――部屋の前に?
辺りを見回す。
誰もいない。
302号室のドアも閉じられたまま。
何の気配もない。
慌てて部屋に入り、扉を閉め、鍵をかける。
ドアに背をもたせて、ゆっくりと息を吐く。
手には、まだあの紙切れが握られている。
「これは……何かの、悪い冗談だよな?」
そうつぶやいて、自分を納得させようとした。
けれど、心の奥に沈んだ冷たい感覚は、消えない。
そして、その夜。
もう一度、確認して寝たはずの窓が――
朝には、また、開いていた。
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