影
昼過ぎ、アパートに戻ると、部屋の空気がわずかに湿っていることに気づいた。
梅雨時だから仕方ない、と自分に言い聞かせながら、靴を脱いで玄関をくぐる。
キッチンに置いたままのコップには、朝と変わらぬ水の量。
室温は26度、湿度は78%。
冷蔵庫の中には昨夜買ったままの牛乳と、使いかけのタマゴパックがある。
それらが正しい場所にあることを確認して、ようやく体の緊張がほどけた。
「何もない。大丈夫だ」
声に出すと、なんだか空しい。
たとえ何も起きていなくても、確認せずにはいられない。
そんなことが続いている。
昨日の記録と記憶の齟齬――あれはきっと、単なる勘違いだ。
自分で書き間違えたのか、あるいは、昨日の朝ではなく一昨日だったのか。
原因は、睡眠不足かもしれない。
仕事の疲れ、最近の不安、そういった曖昧なものたちが、記憶をゆっくり蝕んでいるだけ。
けれど、「記録」は残っている。
それが、やっかいだった。
◯
夜、カーテンを閉める前に、つい窓の鍵を確かめてしまう。
ガチャリと音を立てて、確かに閉まっていると指先に伝わる感触を覚えておく。
「閉まってる。今日はちゃんと、閉めた」
念のため、日記に書いておく。
《7月8日。天気は曇り。気温26度。湿度高め。窓は閉めた。鍵もかけた。》
書いたあと、ふと文字を見つめた。
なんだか、書きながら誰かに言い訳しているような気分になる。
自分自身に? あるいは、日記を“見る”誰かに?
いや、そんなことはない。これはただのメモだ。
習慣として書いているだけ。
自分で自分の不安を静めるための――確認作業。
その夜は、不思議とすぐ眠れた。
扇風機の風が首をなでるように回り、まぶたの奥が温かく沈んでいく。
が――
真夜中。
ふいに、何かの音で目を覚ました。
…カチリ。
最初は夢かと思った。
でも、現実だとわかったのは、寝室のドアがほんの少しだけ開いていたからだ。
閉めていたはずなのに。
昼間の湿気で建て付けが変わったのか。そう思いたかった。
でも、ドアの向こうの空気が、なぜか冷たかった。
部屋の空調は切ってある。
窓も閉めた。確かに閉めた。日記にも書いた。
けれど――
そっと布団から出て、廊下をのぞく。
足音を立てぬよう、そろりそろりと歩きながら、リビングの方へ。
そして、見た。
カーテンの隙間から、白いレースが揺れていた。
窓が、開いている。
夜風が、静かに流れ込んでいる。
ありえない。
喉の奥がカラカラに渇いて、声が出なかった。
震える指で窓の鍵に触れると、それは開いていた。
ガチャリ、と閉める音がやけに響く。
「書いたのに…」
つぶやきながら、今朝書いた日記を読み返す。
確かに、こうある。
《窓は閉めた。鍵もかけた。》
でも、開いていた。現実に、開いていた。
思考が霧のように散っていく中で、一つの考えが浮かんだ。
もしかして、自分で開けた?
無意識に? 寝ぼけて? 夢遊病みたいに?
そんな自覚はない。けれど、それ以外に説明がつかない。
……いや、説明はできる。
何かがいるとしたら。
自分以外の“何か”が。
だが、その仮定はあまりに不気味で、非現実的で、
だから、すぐに脳が拒絶する。
「……たぶん、自分だ。きっと、寝ぼけて」
目をぎゅっと閉じて、もう一度開く。
日記を閉じて、棚の中にしまい込む。
そのまま電気をつけたまま、布団に戻った。
窓が閉まっていることを、何度も、確認しながら。
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