窓
寺崎 峻吾
記録
七月九日、窓が開いていた。
網戸越しに流れてきた風が、寝癖の残る髪をひと撫でした。朝の五時。寝ぼけ眼のまま起き上がり、ぼんやりとカーテンを開けたときには、すでに部屋の空気はじっとりと湿っていた。
この部屋に引っ越してきて、もうすぐ半年が経つ。
駅から徒歩八分、築四十五年の木造アパート。どこにでもある古い一軒で、家賃は相場より少し安い。角部屋で風通しは悪くないが、古さのわりに家賃が下がりきっていないのは、内見時に管理会社の人間がこぼした「ちょっとした事情」のせいかもしれない。
「事故物件ってわけじゃないんですけど……まあ、心理的瑕疵ってやつでして」
彼はそう言って笑った。「人によっては気にする、という程度です」
気にしなければいい。
そう思って決めた物件だった。
けれど、今朝は違和感があった。
――窓を開けた記憶がないのだ。
昨夜は確かに、窓を閉めて寝たはずだった。換気をした覚えもない。鍵も掛けた。雨の湿気が抜けないことに苛立ちつつ、念のためスマホの天気アプリを確認する。昨夜は夜半から雨で、明け方まで降っていたとある。
となれば、窓が勝手に開いていた理由は――わからない。
朝の空気を吸いながら、記憶を巻き戻す。
昨日は仕事で遅くなり、帰宅したのは午後十一時。コンビニで買った弁当を食べて風呂に入ったあと、アラームをセットしてすぐに布団へ入った。窓は――確かに閉めていた。少なくとも、そのつもりでいた。
もやもやしたまま、手帳を開く。
大学生の頃からの習慣で、毎日簡単な記録をつけている。日記というほど感情的ではなく、あくまで箇条書きの“記録”に近い。
⸻
【7月8日】
・出勤(9:30)
・納品ミス対応で残業(~21:00)
・帰宅(23:10)
・コンビニ弁当(ハンバーグ)
・シャワー
・就寝(24:00)
※窓、閉めた。
⸻
※の記述に、思わず顔がこわばった。
昨夜、確かに「閉めた」ことを記録している。
ということは、今朝窓が開いていたのは――何かがあった、ということになる。
深く考えないように、と自分に言い聞かせながらも、胃の奥にぬめりのような不安が残る。鍵は掛けたままだった。網戸にも破れはない。風が吹いて自然に開いた可能性も、ゼロではない。だが、ロックレバーがしっかりと掛かった状態でそれが起こるだろうか?
人の気配はない。
財布もスマホも無事で、室内に異常はない。
ただ、あの“窓”だけが、すべてをぼやかしていた。
そこにあるべき記憶と、そこにない現実。そのギャップが、奇妙に空虚だ。
念のため、玄関とベランダの鍵も再確認する。郵便受けの中は空で、不審な投函もない。
こうした不安を帳消しにするのは、時間と日常の流れだ。そう信じて、いつも通りの身支度をはじめた。
◯
職場に着くと、午前中はいつものようにバタバタと業務に追われた。
ルーティンワークに没頭していると、今朝の違和感もどこか遠くへ押しやられていく。だが、昼休みにふとスマホを開いた瞬間、あの空白が戻ってきた。
メモアプリに同期された“記録”が表示されている。
当然だ。手帳に書いた内容は、毎晩寝る前にアプリへ転記している。
だが、そこにもう一つの記録が存在していた。
⸻
【7月8日(兄)】
・19:40 帰宅
・20:00 カップ麺(味噌)
・21:00 就寝
※外は雨。窓、開けて寝る。
⸻
見覚えのないログに、言葉を失った。
“兄”? そんな設定をした覚えはない。
スマホの中に“兄”の名義でメモを残すようなアプリは入れていない。そもそも、兄などいない。ひとりっ子だ。昔からずっと。
だとすれば、これはバグか、あるいは誰かの悪戯か。
あるいは――。
いや、そんなはずはない。
アプリの同期設定を確認し、アカウントも見直す。共有設定はオフになっている。念のためメモアプリを一旦削除し、再インストールする。だが、「7月8日(兄)」の記録は、復元されて戻ってきた。
頭がじわりと熱くなる。
いったい誰が?
どうして?
――そして、これは何の“記録”なのか。
不安を抱えたまま、午後の業務へ戻る。だが、気が散って仕方がなかった。
パソコンの画面が曇って見え、同僚の声もくぐもって聞こえる。
“あれは本当に、記録だったのか?”
ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
◯
夜、帰宅してからも、その記録のことが頭を離れなかった。
アプリ内の履歴を何度も見返し、保存先や自動バックアップのフォルダも確認する。が、“兄”による記録は、そこに当たり前のように存在していた。
あまりに自然に。
まるで最初からそこにあったかのように。
そしてふと、壁に掛けたカレンダーに目をやると、ペンの跡が残っていた。
“7/9 窓”
自分で書いたのだろうか? 書いた覚えがない。
けれど文字は、明らかに自分の筆跡だった。
背筋を、じっとりと冷たいものが撫でた。
窓を閉めたはずの夜。
記録ではそう記されていた夜。
けれど、“誰か”が開けたと書いていた夜。
そして翌朝、窓は確かに開いていた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます