第23話:世界で一番、やかましい祈り

 詩を、俺は力強く抱きしめた。

 だが、感傷に浸っている時間は、一秒たりとも残されていなかった。


「詩、俺の言うことを聞いてくれ」


 俺は、彼女の肩を掴み、真っ直ぐにその瞳を見つめた。


「お前は、ホールに戻れ。そして、ステージに上がって、吹くんだ。お前の、最高の音を」


「奏くんは……?」


「俺は、病院に行く」


 俺の言葉に、詩は息を呑んだ。


「光!」


 俺たちは、控室に戻り、隅で呆然としている友人の名を叫ぶ。


「お前は、ここに残って、詩と一緒にいてやってくれ。そして、詩の出番になったら、俺に電話をかけろ。絶対にだ」


「お、おう……。ってことは、まさか……」


 光は、俺がやろうとしている無謀な作戦を、一瞬で理解したようだった。

 俺は、詩の手を、もう一度強く握った。


「いいか、詩。俺が、お前の音を、必ず、お前の母親に届ける。だから、信じろ」


「……うん。うん……!信じてる、奏くん!」


 俺は、彼女に背を向け、アクトシティを飛び出した。

 タクシーを拾い、運転手に病院の名前を叫ぶ。


「お願いします、できるだけ、急いでください!」


 車窓を流れていく景色が、やけにスローモーションに見えた。


(……間に合え。間に合ってくれ……!)


 俺は、祈るように、強く拳を握りしめた。


 かつて、俺は間に合わなかった。母さんが、俺の目の前で冷たくなっていくのを、ただ、見ていることしかできなかった。

 あの日の、無力な俺は、もういない。

 今度こそ。今度こそ、俺は、大切な人を、守るんだ。


 病院に滑り込むように到着した俺は、受付も無視して、エレベーターホールへと走った。

 詩の母親の病室がある、三階へ。

 廊下の突き当たり、その病室のドアが開け放たれ、数人の看護師や医師が、慌ただしく出入りしているのが見えた。


「あそこだな……っ!」


 俺は、病室へと駆け込もうとして、屈強な男性看護師に、その行く手を阻まれた。


「待ってください!今、危険な状態なんです!部外者は、立ち入り禁止です!」


 病室の中では、医師が心臓マッサージを行っているのが見えた。モニターからは、生命の危機を告げる、無機質なアラーム音が鳴り響いている。

 その絶望的な光景に、俺の頭は、真っ白になった。


 ――遅かったのか?

 その瞬間、ポケットのスマホが、激しく振動した。

 画面には、『天竜 光』の文字。


 詩の、出番だ。

 その時、俺の中で、何かが焼き切れた。


「どけぇぇぇぇっ!!」


 俺は、制止する看護師を、半ば突き飛ばすようにして、病室の中へと転がり込んだ。


「ちょっと!あなたは一体……!今、処置中なんですよ!」


 女性の看護師が、悲鳴のような声を上げる。


「すみません!でも、これだけは……!これだけは、絶対に、必要なんです!」


 俺は、電話に出た。


「光!聞こえるか!」


『奏!ああ、聞こえる!今、舘山寺さんがステージに……!』


「スピーカーにして、スマホを、ステージに向けろ!全力で!」


『おう、任せろ!』


 俺は、眠る母親のその耳元に、自分のスマホを、祈るように押し当てた。

 電話の向こうから、ホールに響き渡る、フルートの澄み切った音色が、聞こえてきた。


「舘山寺さん!」


 俺は、鳴り響く病室のアラーム音に負けないように、叫んだ。


「あんたの娘さんからだ!あんたが、世界で一番大好きだって言ってた、あいつの音が、今、ここに届いてる!」


 詩の演奏は、技術とか、そういうものを、全て超越していた。

 それは、魂の叫びだった。


「詩も今、頑張ってる!いや、ずっと、必死に頑張ってきたんだ!たった一人で、あんたのために!」


「だからあんたも、あいつの想いに、応えてやってくれよぉっ!!」


 俺の叫びと、詩の音色。

 その、世界で一番、やかましい祈りが、奇跡の引き金を引いた。


 ピー、ピー、と鳴り響いていたアラーム音が、不意に、安定したリズムを取り戻す。

 医師が、驚愕の顔で、心電図のモニターを見つめている。


「……なんだ……?血圧が、安定してきた……?」


 そして、眠り続けていた母親の閉ざされた瞼から、一筋、温かい涙が、そっとこぼれ落ちた。


 電話の向こうでは、詩の演奏が、クライマックスを迎え、そして、静かに終わった。

 その直後、ホールを揺るがすような万雷の拍手が、スマホを通して、この絶望の淵にあった病室にまで、確かに届いていた。

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