最終話:君が忘れたメロディに値段はない
「お母さんっ!!」
静かな病室の中で、詩の声が響き渡る。
肩を切らしながら息をしているところを見るに、相当急いでいたのが分かる。
俺は、駆け寄る詩と入れ替わるように椅子を空け、後から来た光と感謝の目配せをする。
「分かる!?私だよ、詩だよ!!」
「……うた……」
母親は、まだ掠れた声で、しかし、確かに、娘の名前を呼んだ。
「お母さん!私ね、コンクール、金賞だったんだよ!だから――」
詩が、涙ながらにトロフィーの話をしようとした、その時。
母親は、その言葉を、優しい笑みで遮った。
「……聴こえてきたよ、詩ちゃんの、音」
その声は、ひどく穏やかだった。
「頑張ったんだね。……偉いねぇ」
その、たった一言。
彼女が、ずっと、ずっと、聞きたかった言葉。
詩の瞳から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。彼女は、もう、その先は何も言えなかった。ただ、母親の手を握りしめ、子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
俺と光は、顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、頷き合う。
ここは、俺たちがいていい場所じゃない。
俺たちは、誰にも気づかれないように、そっと、病室を後にした。
◇
それから、数週間が経った。
季節は、夏の終わりを告げようとしていた。
俺は、詩の母親から「ぜひ、一度、お礼を言わせてください」と、病院に呼ばれていた。
病室のドアを開けると、そこには、ベッドの上で穏やかな笑顔を浮かべている詩の母親と、その隣で、リンゴを剥いている、詩の姿があった。
「まあ、佐久間くん、いらっしゃい」
「……この度は、詩が、この子共々、大変お世話になりました」
母親と詩は、そう言って、二人で、深々と頭を下げた。
「看護師さんから、聞いたよ」
詩が、少し照れくさそうに言う。
「処置中に、私の音を、届けてくれてたんだってね。……約束、守ってくれて、ありがとう」
「……大したことは、してない」
俺は、ぶっきらぼうに答えた。
「俺は、手伝いをしただけです。あなたを助け、この奇跡を起こしたのは、全て、彼女が頑張ったから。そして、あなたが、それに応えてくれたからですよ」
俺の言葉に、詩と母親は、顔を見合わせて、幸せそうに微笑み合った。
「それにしても」と、母親が、ころころと楽しそうに笑う。
「詩ったら、ようやく、素敵な彼氏さんを連れてきてくれたのねぇ」
「……は?」
「ちょ、お母さん!何言ってんの!」
詩が、顔を真っ赤にして、母親の肩を小突く。
その瞬間、俺の脳裏に、あのコンクール当日の、魂の叫びがフラッシュバックした。
『――好きだからだ!お前のことが、どうしようもなく好きなんだよ!』
(……そういえば、あれから、返事、もらってねえな……)
「い、いえ、そういう間柄では……!」
俺が、頭を抱えながら否定すると、病室は、温かい笑いに包まれた。
「……詩」
俺は、真面目なトーンで、彼女の名前を呼んだ。
「少し、いいか?」
俺たちが向かったのは、全ての始まりの場所。いつもの公園だった。
ベンチに座ると、詩が、先に口を開いた。
「……約束、守ってくれて、本当にありがとう」
そして、彼女は、俺の目を、まっすぐに見つめた。
「今度は、私が、約束を守る番だね」
彼女の言っている意味を、俺は、すぐに理解した。
母親の意識は戻った。だが、まだお金は必要だ。俺たちが最初に交わした契約。
「この記憶を、買い取ってください。そういう、約束だったでしょ?」
「……ああ」
俺は、短く答える。
「……査定の時間だ」
俺は、彼女の額に、そっと指を触れ、古びた
目を閉じると、俺たちのこれまでの記憶が、走馬灯のように、二人の中に流れ込んでくる。
初めて会った、夕暮れの公園。
二人だけの、化学準備室。
屋上で食べた、卵焼きの味。
バイクの後ろで感じた、温もり。
そして、絶望の淵で、交わした、魂の告白。
その、全ての記憶の中にいる詩は、一度だって、後悔していなかった。
査定結果は――測定不能。
この記憶に、あの二人以外に価値を見出せるものか。
仮に査定結果が違ったとしても、値段なんて、つけられるはずがなかった。
(……対価は、とっくに貰ってるもんな)
詩と、彼女の母親が、笑い合ってる。それだけで、十分すぎるくらいだ。
だが、これで、ビジネスパートナーとしての関係も、終わりだ。未来が開けたこいつに、もう、俺のような忘却屋は、必要ない。
「……幸せになれよ」
俺は、そう言って、踵を返した。
これで、いい。これが、正しい。
「待って!」
背後から、大きな声が、俺を呼び止めた。
振り返ると、詩が、息を切らして、俺の目の前に立っていた。そして、一枚の楽譜を、俺に、ぐい、と突きつけてきた。
「……なんだよ、これ。楽譜?」
「……違う、裏、見て」
俺は、言われるがままに、その楽譜を裏返した。
そこには、彼女の、少しだけ丸みを帯びた、しかし、強い意志が込められた文字で、こう書かれていた。
【雇用契約書】
雇用主:舘山寺 詩
被雇用者:佐久間 奏
上記被雇用者を、本日より、雇用主の『専属パートナー』として採用します。
業務内容:今後、嬉しい記憶も、悲しい記憶も、全て二人で分かち合うこと。
契約期間:これから、ずっと。
「……返事、まだだったでしょ?」
詩は、顔を真っ赤にしながら、俺の目を、潤んだ瞳で、見上げていた。
「私も、奏くんのことが、好きです。だから、これが、私からの、返事……なん、だけ、ど……」
俺は、その無茶苦茶で、あまりにも愛おしい契約書を、ただ、見つめることしかできなかった。
やがて、こらえきれずに、笑いが込み上げてきた。
「……ははっ。分かったよ」
俺は、彼女に向き直ると、少しだけ意地悪く、笑ってみせた。
「こっちの仕事も少しは手伝ってくれよ、専属雇い主さん?」
きょとんとする彼女に、俺は、続ける。
「これからよろしく頼む、忘却屋のバイトさん」
その言葉に、詩は、一瞬、むっとした顔をしたが、すぐに、太陽みたいな笑顔で、敬礼してみせた。
「はいっ、店長!」
「あぁ!!そうだった!!」
彼女は、何かを思い出したように、手を叩いた。
「バイトとして働くにあたって、どーしても、言いたいことがあります!」
「なんだよ」
「このお店の名前、今日から変えよ?」
彼女は、最高の笑顔で、俺に、新しい看板をプレゼントしてくれた。
「『忘却屋』じゃなくて、『記憶屋』にしよう!」
「だって、忘れることだけが幸せじゃないって、奏くんが教えてくれたんだよ。そんなあなたには、こっちの名前の方が、いいと思うの!」
「だから、勝手に名前を変えるんじゃありません」
その、あまりにも、しっくりくる響き。
俺は、空を仰いで、もう一度、笑った。
ああ、そうか。
俺が、ずっと探していたものは、それだったんだ。
俺は……俺たちは、『記憶屋』だ。
この不思議な街で、俺たちと同じように、記憶の波に溺れた人の助けになる。
そして今日もまた、藁にもすがる依頼者の通知音が、俺の携帯にこだまする。
君が忘れたメロディに値段はない 下朴公脩(げぼくきみはる) @hamuharu1202
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