第22話:お前を失うくらいなら

「乗りなさい、舘山寺さん。時間は、命よりも重い。そうだろ?」


 相沢の甘い囁きが、詩の心を絡め取ろうとする。俺は、叫んだ。


「乗るな!そいつの言うことを聞くな!」


 俺は詩の隣に駆け寄り、その震える手を強く握った。「俺を見ろ」と。

 だが、彼女の瞳は、もう俺を映してはいなかった。絶望と、母親の顔と、そして、目の前に差し出された悪魔の救いの手しか、見えていなかった。

 彼女は、俺の手を、振り払った。


「……行かなきゃ」


 その声は、ひどく乾いて、ひび割れていた。


「お母さんが、死んじゃうかもしれないんだよ……!」


 詩は、相沢の車の、冷たいドアハンドルに手をかける。


「約束しただろ!」


 俺は、彼女の肩を掴んだ。


「お前の音は、俺が必ず届けるって!俺を信じろ!」


「約束……?」


 詩は、ゆっくりと俺を振り返った。その瞳には、俺が今まで見たことのない、冷たい光が宿っていた。


「そんなの、ただの気休めじゃない!あなたの言ってることは、何の確証もない、ただの可能性の話!でも、この人は、今すぐお母さんを助けられるかもしれないって言ってるの!」


 彼女の言葉が、ナイフのように俺の胸に突き刺さる。


「佐久間くんだって、そうしてきたんじゃないの!?」


 彼女は、叫んだ。


「『忘却屋』として、奇跡なんかじゃなく、非合法でも“確実な方法”で、人の記憶を消してきたんでしょ!?私も、そっちを選ぶ!今すぐお母さんを助けられるなら、私は、なんだってする!」


 俺は、何も言い返せなかった。

 彼女の言うことは、かつての、そして今の俺自身を、的確に撃ち抜いていたからだ。


 俺の沈黙を、肯定と受け取ったのだろう。詩の瞳から、最後の光が消えた。


「……なんで、そんなに私のこと構うの?」


 彼女は、涙ながらに、吐き捨てるように言った。


「ほっといてよ!もう、あなたには、何もできないんだから……!」


 彼女は、俺の胸を、小さな手で、ドン、と突き飛ばした。

 それは、完全な、拒絶だった。


 そうか。

 俺はなんて愚かだったのか。


 彼女はずっと、戦っていたのだ。

 俺と共にいた時も、ずっと。

 その不安と戦っていたのだ。


 その不安を煽っていたのは、紛れもない、誰でもない、俺自身。

 このままでいたいと、居心地が良いと思い、問題を先送りにした。

 なんで、気付いてあげられなかった…!?


 詩が、車のドアを、開けようとした、その瞬間。


「――関係なくなんかない!あるに決まってんだろ!!」


 俺は、自分でも驚くような、張り裂けんばかりの声で、叫んでいた。

 ニヒルな仮面も、忘却屋の矜持も、全てが剥がれ落ちる。


「俺が怖いんだよっ!!」


 俺は、魂を絞り出すように、本当の、本当の想いを、彼女にぶつけた。


「お前まで、俺の前からいなくなるのが!母さんと同じように、また俺のせいで、お前が壊れていくのを見るのが、死ぬほど怖いんだ!」


 俺の、封印していたトラウマ。俺の、一番醜くて、一番弱い部分。

 構うものか、今ここで言わずして、いつ言うというのか。


「好きだからだ!お前のことが、どうしようもなく好きなんだよ!だから、行かせられるわけないだろ!」


 俺の、生まれて初めての、告白。

 それは、甘酸っぱい青春の一ページなどでは断じてない。絶望の淵にいる少女の魂に、食らいつくための、ただの、魂の叫びだった。


「だから、頼む……っ!俺と一緒に来い、詩!!」


 俺は、彼女に、懇願した。


「もう一度、俺を信じてくれ。奇跡じゃねえ。俺とお前なら、起こせる。絶対に」


 俺の告白に、詩の動きが、完全に止まった。

 相沢が、車の中から、つまらなそうに、しかしどこか興味深そうに、俺たちを見ている。


「……茶番は、もう済んだかい? 時間がないのだが」


 詩は、ゆっくりと、相沢から視線を外した。

 そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、俺を、ただ、じっと見つめた。

 彼女は、車のドアハンドルから、そっと手を離すと、ふらふらと、おぼつかない足取りで、俺の方へと歩いてきた。

 そして、俺の胸に、顔をうずめるように、強く、強く、抱きついてきた。


「……ばか」


 しゃくりあげながら、彼女が言った。


「佐久間くんの、……ばか……っ!」


「全部、全部全部遅いんだよ…!…今度こそ、信じさせてくれる?」


「あぁ、もちろんだ。…忘却屋に、任せておけ」


 彼女は、俺を選んだ。

 相沢は、その光景を、一瞥すると、心底つまらなそうに「やれやれ。感動的なメロドラマだ」と呟いた。

 黒塗りの高級車のウィンドウが、静かに上がり、音もなく、雑踏の中へと走り去っていく。


 残された時間は、もうほとんどない。

 俺は、腕の中で泣きじゃくる彼女の体を、強く、強く、抱きしめ返した。

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