第21話:悪魔のショートカット
会場であるアクトシティ浜松の大ホールは、午前の部の演奏が終わり、昼休憩の喧騒に満ちていた。
俺と詩は、出演者用の控室で、その瞬間を静かに待っていた。
「……緊張、してるか?」
俺が尋ねると、膝の上でフルートケースを大事そうに抱きしめていた詩は、ゆっくりと顔を上げた。今朝、病院で見た、決意に満ちた瞳。その光は、まだ少しも揺らいでいない。
「うん、少しだけ。でも、怖くはないよ」
彼女は、そう言って、ふわりと微笑んだ。
「だって、今日は一人じゃないから。私の音は、佐久間くんが届けてくれるんだもんね」
「……ああ。だから、お前は何も考えるな。ただ、感情のままに吹け。残りは全部、俺がやってやる」
俺たちの間には、もう余計な言葉は必要なかった。
朝の病院で交わした約束。それは、俺たち二人にとって、何よりも強固な契約だった。
詩の出番は、午後の一番最後。あと、三十分ほど。
ステージマネージャーが「次、舘山寺さん、準備お願いします」と呼びに来る、まさにその時だった。
詩のカバンの中で、彼女のスマホが、けたたましい着信音を鳴らした。
画面に表示された名前は、『遠州総合療養病院』。
俺の心臓が、どくん、と嫌な音を立てて跳ねた。
詩は、震える指で、通話ボタンを押す。スピーカーモードになっていないのに、電話の向こうの、切迫した看護師の声が、静かな控室に漏れ聞こえてくるようだった。
「……はい、娘の詩です。……え……?」
詩の顔から、全ての表情が抜け落ちた。さっきまでの決意も、穏やかな笑みも、全てが嘘だったかのように、真っ白な能面へと変わっていく。
「……容態が、急変……。……危険な、状態……はい……はい……! すぐに、行きます!」
電話が、彼女の手から滑り落ち、床に硬い音を立てて転がった。
その行動の意味を理解するのに、時間はかからなかった。
「……お母さんが……お母さんが……!」
彼女の瞳から、涙が溢れるよりも先に、絶望がその色を支配した。
コンクールも、俺との約束も、全てが、母親の命という、あまりにも重い現実の前に、吹き飛んでいく。
「ごめん、佐久間くん……ごめんなさい……っ!」
彼女は、それだけを叫ぶと、自分のフルートケースをその場に残したまま、控室を飛び出していった。
夢も、希望も、全てを置き去りにして。
「舘山寺っ!」
俺の叫びも、もう彼女には届かない。
俺は、唇を強く噛み締めた。血の味がした。
(――ここで、終わらせるわけには、いかねえだろ……!)
俺は、彼女が残していったフルートケースを掴むと、近くにいた天竜光に、強い口調で言った。
「光、ステージマネージャーに、舘山寺は急な発作で、医務室にいるとでも何とでも言え。何があっても、出番まで時間を稼げ!頼むぞ!!」
「お、おい、奏!? 何言って――」
「俺が、絶対に連れ戻す」
俺は、友人の返事も聞かず、詩の後を追って走り出した。
ホールを抜け、エントランスを突っ切り、真夏の日差しが照りつける外へと飛び出す。
詩は、大通りで、必死にタクシーを止めようとしていた。だが、こんなイベントの日に、空車のタクシーがすぐに見つかるはずもなかった。
「早く……早く……!」
彼女の、悲痛な声が聞こえる。
その、絶望の淵に立たされた彼女のスマホが、再び、ぶぶっ、と短く震えた。
メッセージの受信通知。差出人は、『不明な番号』。
そこに表示された、冷たいデジタルの文字。
『タクシーでは、間に合わないよ。
でも、私なら、君を五分でお母様の元へ届けられる。
それに、間に合った時のための、素敵な『お土産』も用意してある。
興味は、あるかな?』
そのメッセージが表示された、次の瞬間だった。
一台の、黒塗りの高級車が、音もなく、詩の隣に滑るように停車した。
ゆっくりと、後部座席のウィンドウが下がる。
中には、あの男――相沢が、穏やかな笑みを浮かべて座っていた。
「乗りなさい、舘山寺さん。時間は、命よりも重い。そうだろ?」
詩は、その場に凍りついた。
目の前に現れた、悪魔のショートカット。
それに乗れば、母の元へ行けるかもしれない。しかし、その先にあるのは、本当の絶望だ。
「舘山寺っ!!」
俺は、叫びながら、彼女の元へと走った。
俺の姿に気づいた詩が、助けを求めるように、潤んだ瞳で俺を見る。
相沢は、そんな俺を一瞥すると、楽しそうに、口の端を吊り上げた。
選択の時は、今、この瞬間に悪魔が笑うようにやってきたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます