第20話:眠り姫のためのプレリュード
コンクール当日の朝。
俺は、浜松駅の改札前で、少し緊張した面持ちの詩を待っていた。決戦の地であるアクトシティへ向かう、その前に。
彼女は、俺と会うなり、真剣な瞳でこう言った。
「佐久間くん。会場に行く前に、どうしても、寄りたい場所があるの」
その表情に、俺は何も聞かず、「分かった」とだけ頷いた。
バスを乗り継いでたどり着いたのは、佐鳴湖を望む丘の上に立つ、静かな療養病院だった。
清潔だが、どこか無機質な廊下を、俺たちは並んで歩く。消毒液の匂いが、肺を満たす。詩は、ある病室のドアの前で足を止めると、一度、深く息を吸った。
「……ここで、待っててくれる?」
俺は、黙って頷いた。ドアの曇りガラスに、彼女の小さなシルエットが吸い込まれていくのを、俺はじっと見つめていた。
◇
病室の中は、機械の電子音だけが、静かに時を刻んでいた。
ベッドの上で眠っているのは、私のお母さん。たくさんのチューブやコードに繋がれて、静かに、ただ静かに、眠り続けている。
お母さんは、昔、いつも笑っている人だった。私が初めてフルートで音を出した日、「詩の音は、世界で一番素敵な音色ね」と、涙を流して喜んでくれた。
でも、お父さんが何も言わずに家を出ていったあの日から、お母さんの心は、少しずつ壊れていった。
診断された病名は、『進行性記憶風化』。
強い精神的ショックが原因で、感情と共に、過去の記憶が少しずつ失われていく、残酷な病気。治療法はなく、高価な薬で、記憶の完全な消滅を、ほんの少しだけ、遅らせているだけ。
最初は、物忘れがひどくなるだけだった。でも、やがて、私の名前を呼ばなくなり、そして、笑わなくなった。今は、一日のほとんどを、こうして眠って過ごしている。
私は、ベッドの横の椅子に座り、お母さんの、痩せてしまった手を握りしめた。
「……お母さん、私だよ。詩だよ」
返事はない。
「聞いて、お母さん。今日ね、コンクールなの。ずっと、この日のために、練習してきたんだよ」
私は、震える声で、眠る母に語りかける。
「私ね、今日、最高の演奏をするの。そしたら、きっと、お母さん、思い出してくれるよね? 私のフルートの音、世界で一番素敵だって、言ってくれたもんね。昔みたいに、また、笑ってくれるよね……?」
お金のためじゃない。名誉のためでもない。
私の、たった一つの、本当の願い。
この音で、母の記憶を呼び覚ましたい。ただ、それだけだった。
◇
十分ほどして、病室から出てきた詩の瞳は、赤く濡れていた。だが、その表情には、一点の曇りもなかった。それは、全てを懸ける覚悟を決めた、戦う少女の顔だった。
俺は、何も言わずに、ポケットから出したハンカチを彼女に手渡した。
病院を出て、バス停へと向かう坂道を、俺たちは並んで歩いた。
「……ごめんね。待たせちゃって。どうしても来たかったの」
「別に」
「……全部、話すね」
彼女は、歩きながら、ぽつり、ぽつりと、全てを話してくれた。
母親の病気のこと。少しずつ記憶を失い、眠り続ける母親のこと。そして、コンクールで最高の演奏をして、その音で、その記憶で、母の心を呼び戻したい、という、彼女の本当の願いを。
俺は、言葉を失った。
彼女が、あの小さな背中に、どれほど重いものを背負っていたのか。彼女が、なぜ、あんなにも無謀な「幸福創出計画」に手を出し、偽りの才能にまで縋ろうとしたのか。
その理由を、俺は、今、ようやく魂で理解した。
バス停に着いた時、俺は、彼女の手を、強く握った。
「……分かった」
俺は、彼女の濡れた瞳を、まっすぐに見つめ返す。
「なら、なおさら、負けられないな」
「今日のあんたの音は、俺が保証する」
俺は、覚悟を決めて、言った。
「その音は、あんたの母親の心にだって、絶対に届く。……いや、届かせる。『忘却屋』としてじゃない、"俺"が、必ず」
それは、俺の、初めての、そして最大の覚悟の表明だった。
ただ彼女の演奏を支えるだけじゃない。その音色に乗せた「想い」という名の記憶データを、俺の持てる全ての力で、眠り続ける母親の記憶に「届ける」。
それが、俺の戦いだ。
詩の瞳から、再び、涙が溢れた。でも、それは、さっきまでの涙とは違う、温かい光を宿していた。
「……うんっ!」
俺たちは、やってきたバスに乗り込んだ。
決戦の地、アクトシティへ。
空は、どこまでも青い。
だが、その空の向こうで、俺たちの覚悟を嘲笑うように、悪魔が微笑んでいることを、俺たちはまだ、知らなかった。
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