第19話:夜明けの約束
長い、長い夜が明けた。
東の空が白み始めている。窓から差し込む朝の光が、天竜光の雑然とした部屋を、神々しいまでに照らし出していた。
俺の胸の上では、泣き疲れた詩が、小さな寝息を立てていた。そのあどけない寝顔は、俺の記憶の闇に共にダイブし、俺を絶望の淵から引きずり出してくれた、勇敢な戦士の姿とは、とても結びつかない。
俺は、彼女の髪にかかる前髪を、そっと指で払ってやった。その頬には、まだ涙の跡が、乾かずに残っている。
どれくらいの時間が、経ったのだろうか。
俺の腕の中で、詩が、ん、と小さく身じろぎをした。そして、ゆっくりと、その瞳を開ける。
「……あ。……佐久間、くん……」
寝ぼけ眼の彼女は、自分が俺の腕の中にいることに気づくと、一瞬で顔を真っ赤にして、慌てて体を離そうとした。
「ご、ごめんなさい! 私、いつのまにか……!」
「……いい。お前が、ずっとそばにいてくれたんだろ」
俺は、そんな彼女の体を、優しく、しかし力強く、もう一度引き寄せた。今度は、彼女も抵抗しなかった。
俺たちは、しばらく、ただ黙って、窓の外が明るくなっていくのを眺めていた。
先に口を開いたのは、俺だった。
「……全部、思い出したよ」
俺は、天井を見上げながら、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。
「俺の母親は、ピアニストだった」
「……あのコンクールの日、俺が、わがままを言わなければ、母さんは死ななかった。俺のせいだ」
罪悪感が、また胸を締め付ける。だが、以前のような、底なしの闇ではない。
隣で、詩が、俺の話を、ただ黙って聞いてくれている。その存在が、俺を支えてくれていた。
「だから、俺は忘れることにしたんだ。ピアノも、母さんのことも、全部。……馬鹿だよな、俺は」
俺が自嘲気味に笑うと、詩は、静かに首を横に振った。
そして、俺の胸から顔を上げると、涙で濡れた瞳で、俺のことを、まっすぐに見つめた。
「……馬鹿じゃないよ」
彼女は、震える手で、俺の頬にそっと触れた。
「佐久間くんは、ずっと、一人で戦ってたんだね。辛かったね。……苦しかったね」
彼女の言葉は、どんな慰めよりも、俺の心の奥深くに、じんわりと染み込んでいった。
「でも、もう大丈夫。あなたは、もう一人じゃない。私が、いるから」
その瞬間、俺の中で、固く凍りついていた何かが、完全に溶けていくのを感じた。
俺は、彼女のその小さな体を、どうしようもなく愛おしく思い、強く、強く、抱きしめた。それは、恋心というにはあまりにも切実で、命の恩人に対するような、魂からの感謝だった。
「……舘山寺。ありがとう」
俺は、彼女の耳元で、囁くように言った。
「お前がいなかったら、俺は、あの闇の中から、二度と戻ってこれなかった」
俺は、一度体を離し、彼女の瞳を、まっすぐに見つめ返した。
「俺は、まだお前に、何も返せてない。だから、約束させてくれ」
「約束……?」
「明日のコンクール、俺が、お前にとっての『最高の記憶』にしてやる。あんたが、人生で一番だって胸を張って言えるくらい、輝く一日にしてみせる。だから……」
俺は、彼女の、両手を、強く握った。
「だから、明日は、ただ、あんたのためだけに、吹け。誰のためでもない。あんたが、奏でたいと願う、本当の音を」
それは、俺にできる、最大限の覚悟の表明だった。
詩は、俺の言葉の裏にある、全ての想いを、正確に受け取ってくれたようだった。
彼女は、瞳に涙を溜めながらも、これまでで一番、力強い笑顔で、頷いた。
「うん。……もう記憶を売るなんて言わない」
彼女は、握られた俺の手に、自分の手を重ねる。
「佐久間くんがいてくれたら、大丈夫、なんとかなる、なるって思えるから…」
俺たちは、どちらからともなく、顔を寄せた。
しかし、唇が触れ合うことはない。その代わりに、俺たちは、互いの額を、こつん、と優しく合わせた。
そこに在るのは、恋人同士の甘さではない。これから、人生最大の舞台に、共に挑む「パートナー」としての、静かで、しかし燃えるような、覚悟の共有だった。
コンクールは、もう明日に迫っている。
しかし、俺たちはまだ知らなかった。過酷な運命の最中、奴の狡猾な魔の手が、舘山寺にまた迫ってきていることに…
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます