第18話:忘却の扉

「お前じゃなきゃ、ダメなんだ」


 俺の懇願に、詩は、涙を浮かべながらも、最高の笑顔で頷いてくれた。

 その瞬間、俺たちの間にある最後の壁が、音もなく崩れ落ちた気がした。


 だが、問題は、どうやって俺の記憶に「ダイブ」するか、だ。

 俺が普段、依頼人の記憶にアクセスする時は、忘却屋の仕事で使う特殊なインターフェース・デバイスと、相手の許可が必要になる。

 しかし、俺自身の記憶は、あまりにも強固なプロテクトで、俺自身でさえアクセスすることができない。


「……方法があるとしたら、一つだけ…か」


 俺は、公園のベンチで、詩に説明を始めた。


「俺の記憶は、俺自身の意思では開けない。だが、外部からの強い衝撃……特に、感情的な共鳴があれば、そのロックが一時的に外れる可能性がある。相沢に会った、あの時のように」


「それって……」


「ああ。俺たちの『記憶の共鳴』を利用するんだ。舘山寺、お前のフルートの音色を、鍵にさせてくれ」


 それは、あまりにも危険な賭けだった。

 成功すれば、俺は失われた過去を取り戻せるかもしれない。だが、失敗すれば、俺たちは二人とも、俺の悪夢の中で永遠に迷子になる可能性すらある。


「すまん、怖いよな?」


 俺が尋ねると、詩は、ふるふると首を横に振った。


「ううん。怖くないよ。佐久間くんと一緒なら」


 その瞳には、もう迷いはなかった。


 さっそく行動に移したいところだが、俺たちは、場所を移すことにした。

 人目のある公園では、あまりに無防備すぎる。俺は、天竜光に連絡を取り、「今から、お前の部屋に行く。絶対に誰にも言うな」とだけ告げた。




 光の部屋は、バイク雑誌と、どうでもいいガラクタで溢れかえっていた。

 事情を説明すると、光は最初こそ「お前ら、正気かよ!?」と絶叫したが、俺たちの真剣な眼差しを見て、何かを察したようだった。


「……分かったよ。俺は外で見張りでもしてる。……奏、絶対に、無茶だけはすんなよ」


 友人の不器用な優しさに、俺は「ああ」とだけ頷いた。


 光の部屋の、ベッドの上。俺と詩は、向かい合って座った。

 窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれている。部屋の明かりを消すと、月明かりだけが、俺たちの緊張した横顔を、ぼんやりと照らし出した。


「……準備はいいか?」


 俺の問いに、詩はこくりと頷くと、静かにフルートを構えた。

 俺は、ベッドに仰向けになり、目を閉じる。ヘッドフォンをつけ、彼女の音だけが、直接俺の脳に届くようにセットした。


「舘山寺」


 俺は、最後に、彼女の名前を呼んだ。


「もし、俺が俺でなくなりそうになったら……その時は、お前が、俺を連れ戻してくれ」


「……うん。約束」


 ヘッドフォンから、彼女の、息を吸う音が聞こえる。

 そして、奏でられ始めたのは、俺たちの、始まりのメロディだった。

 その音色が、俺の意識の扉を、ゆっくりと、しかし確実にこじ開けていく。

 忘却という、固く閉ざされた扉の鍵が、きしりと音を立てて回るのが分かった。


 視界が、真っ白な光に包まれる。

 次に目を開けた時、俺は、知らない場所に立っていた。


 いや、違う。知っている。忘れていただけだ。


 そこは、古い市民ホールの、広い、広い舞台の上だった。

 客席は、満員だ。割れんばかりの拍手が、耳をつんざくように鳴り響いている。スポットライトの白い光が、目を焼くように眩しい。

 そして、目の前には、一台の、黒く輝くグランドピアノ。


(――そうだ。ここは、俺が最後にピアノを弾いた、あのコンクールの舞台だ)


 舞台袖に、幼い頃の自分の姿が見える。緊張した面持ちで、観客席を見つめている。

 視線の先には、優しそうな笑顔を浮かべた、美しい女性が座っていた。彼女は、俺に向かって、小さくガッツポーズをして見せた。


 ――母さん。

 思い出した。そうだ。あの日のコンクールには、母さんが来てくれていたんだ。

 俺は、彼女に最高の演奏を聴かせたくて、必死に練習した。


 なのに。


 その瞬間、世界が、ぐにゃりと歪んだ。

 ホールの壁が、ガラスのように砕け散り、耳をつんざくようなブレーキ音と、金属が擦れる、嫌な音が響き渡る。


 拍手は、悲鳴に変わった。

 スポットライトの白い光は、救急車の、赤色灯の明滅に変わる。

 目の前の光景が、変わる。


 雨が、降っていた。アスファルトの匂い。

 横転した車。散らばるガラスの破片。

 そして、赤い、赤い血だまりの中に、倒れている、母さんの姿。


「いやだ……いやだ……っ! これ以上は、見たくない!」


 俺は、絶叫した。これが、俺が忘れたかった、真実。俺が、逃げ続けた、現実。

 俺のせいで、母さんは……。


 罪悪感という名の、底なしの沼が、俺の意識を飲み込んでいく。

 闇に、沈む。もう、戻れない。


 その時だった。

 闇の底に、一筋の、光が差し込んできた。

 フルートの、音色だ。

 俺を、呼ぶ声が聞こえる。


『――佐久間くん!』


 詩の声だ。

 彼女の音色が、彼女の想いが、俺の記憶の世界に、直接流れ込んでくる。

 それは、俺たちの『記憶の共鳴』。


『思い出して!屋上で食べた、卵焼きの味!』

『潮風の中で聴いた、自由な音!』

『繋いでくれた、手のひらの温度!』

『あなたは、一人じゃない! 私が、ここにいるよ!』


 詩の温かい記憶が、俺を縛り付ける、冷たい絶望の鎖を、溶かしていく。

 俺は、光に向かって、必死に手を伸ばした。


「……舘山寺……っ!」


 次に目を開けた時、俺は、光の部屋のベッドの上にいた。

 視界には、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、俺の顔を覗き込む、詩の姿。

 俺は、彼女の頬に、そっと手を伸ばした。


「……ただいま」


 俺がそう言うと、彼女の瞳から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。

 彼女は、俺の胸に顔をうずめて、子供のように、声を上げて泣いた。

 俺は、そんな彼女の背中を、ただ、優しく、何度も、何度も、さすり続けた。

 長い、長い夜が、ようやく、明けようとしていた。

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