第16話:解かれた約束と、解けない魔法

 楠の木に触れた瞬間に流れ込んできた、情報の奔流。

 それは、俺が今まで経験したどんな記憶へのアクセスとも違っていた。他人の記憶を「覗き見る」のではなく、まるで自分がその場にいたかのように、五感の全てで「追体験」する。


 夏のむっとするような熱気、土の匂い、けたたましい蝉時雨、そして、二人の子供の、胸が締め付けられるような感情の起伏。

 あまりにも鮮明で、強烈な体験だった。


「佐久間くんっ!大丈夫!?しっかりして!」


 詩の悲鳴のような声で、俺は現実へと引き戻された。

 視界がまだぐらぐらと揺れている。倒れそうになる俺の体を、彼女がその小さな体で、必死に支えてくれていた。その温もりだけが、俺をこの場所に繋ぎ止めている、唯一の錨だった。


「……ああ。大丈夫だ」


 俺は、なんとかそれだけを絞り出し、彼女の肩を借りて、ゆっくりと体勢を立て直した。額には、びっしょりと冷たい汗が浮かんでいる。


「……今のは、なんだ……?」


 俺自身の問いに、俺はまだ答えられない。だが、確信だけがあった。


「間違いない。ここが、始まりの場所だ。あいつらの記憶は、この木に、この場所に、今も残留思念として残り続けてる」


「残留思念……」


 詩が、信じられない、という顔で、目の前の大きな楠を見上げる。


「じゃあ、アミさんたちが同じ夢を見ていたのは……」


「ああ。この場所に宿った強い『約束』の記憶が、アンテナになって、二人を繋いでいたんだ。本人たちが忘れてしまっても、記憶そのものは、ここでずっと、約束が果たされるのを待っていた。……健気なもんだな」


 俺は、ポケットからスマホを取り出すと、依頼人であるアミさんに電話をかけた。数回のコールの後、彼女が「もしもし?」と明るい声で電話に出る。

 俺は、単刀直入に告げた。


「佐鳴湖公園に来てくれ。西岸の、一番大きな楠の木の前だ。……それと、ハヤトにも連絡して、一緒に来るように伝えてくれ。全ての答えは、ここにある」



 三十分後。アミさんと、その少し後ろを、気まずそうについてくるハヤトくんが、半信半疑といった顔でやってきた。


「ここが……?夢の場所……?」


 アミさんは、目の前の楠を見上げて、息を呑んだ。

 ハヤトくんも、その場所を見た瞬間、何かに気づいたように、顔色を変えた。

 俺は、二人に向き直ると、静かに言った。


「あんたたちは、忘れてるだけだ。昔、この場所で、あんたたちは出会ってる。そして、固い約束を交わした」


 俺は、先ほどこの木から読み取った記憶の断片を、一つ一つ、丁寧に言葉にしていく。


「夏の日の、かくれんぼ。泣きながら交わした、『また、絶対、ここで会おうね』っていう約束。……何か、思い出さないか?」


 俺の言葉に、二人の顔が、みるみるうちに変わっていく。

 アミさんの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「……思い、出した……。そうだ、私、ハヤトくんと……。幼稚園の夏祭りの日、ここで……」


 ハヤトくんも、俯いたまま、震える声で呟いた。


「転校する、僕のために……アミが、泣いてくれて……。だから、僕は……」


 忘却の彼方にあった記憶の扉が、今、開かれようとしていた。

 だが、あと一歩、何かが足りない。記憶の核心部分には、まだ靄がかかっている。


 俺は、詩の顔を見た。彼女は、俺の意図を正確に読み取って、こくりと頷いた。

 彼女は、おもむろにケースからフルートを取り出すと、その唇にそっとあてた。

 そして、奏でられ始めたのは、俺たちの間にだけ存在する、あのメロディだった。


 どこか懐かしくて、切なくて、そして、温かい。人の心の、一番柔らかい場所に、直接語りかけるような音色。

 そのメロディが、最後の鍵になった。

 アミさんとハヤトくんの脳内で、バラバラだった記憶のピースが、一つの物語として繋がっていく。

 詩の音色は、この場所に宿る残留思念と共鳴し、二人が忘れていた「約束の日の光景」を、鮮明な映像として、その場にいる全員の心に映し出した。



 ――『ぜったい、ぜったい、また会いに来るから!だから、泣くなよ!』


 ――『うん……!やくそく、だからね!』


 ――夕暮れの楠の木の下で、指切りをする、二人の小さな子供の幻影。



「……思い出した」


 ハヤトくんが、顔を上げた。その瞳は、涙で濡れていた。


「僕だ……。僕が、言ったんだ。『また会いに来る』って。それなのに、僕は……ずっと、忘れてて……」


「ハヤトくん……!」


 アミさんが、彼の名前を呼ぶ。

 高校で再会した時、ハヤトくんは、幼い頃とは全く違う、内気で人見知りな性格になっていた。彼は、そのギャップを恥じて、アミさんから逃げ続けていたのだ。約束を果たせない罪悪感が、彼を無意識に苦しめていた。


「ごめん……っ。ずっと、覚えててくれたのに……ごめん……っ」


 ハヤトくんは、子供のように泣きじゃくった。

 アミさんは、そんな彼に、優しく微笑みかけた。


「ううん。私も、忘れてたもん。でも……思い出せて、よかった。……会えて、よかった」


 長年、この場所に留まり続けていた、二人の「約束」の記憶。

 それは、ようやく果たされ、温かい光となって、空へと昇っていくようだった。



 帰り道。俺と詩は、夕暮れの佐鳴湖のほとりを、並んで歩いていた。


「……すごいね、佐久間くん。”記憶屋さん”って、魔法使いみたい」


 詩が、心からの感嘆を込めて言う。


「魔法なんかじゃねえよ。ただ、そこにあったはずのものを、思い出させる手伝いをしただけだ」


 俺は、照れ隠しに、ぶっきらぼうに答えた。


「でも、」と彼女は続けた。


「約束って、解かれちゃうと、少しだけ、寂しいね」


 その言葉に、俺は少しだけ、胸がちくりと痛んだ。

 俺と彼女を繋ぐ、この不思議な『記憶の共鳴』。

 その謎が解けてしまった時、俺たちの間にかけられたこの特別な魔法も、いつか、解けてしまうのだろうか。


 そんな、答えの出ない問いが、俺の心に、静かな波紋を広げていた。

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