第9話:君と探す、音の鳴る場所
いつもの化学準備室での練習が終わり、窓の外がオレンジ色に染まり始めた頃だった。
俺は、フルートを片付けている詩の背中に、ぽつりと声をかけた。
「……なあ、舘山寺」
「なに、佐久間くん?」
「たまには、外で音を出してみるか。気分転換にもなるだろ」
俺の唐突な提案に、詩はきょとんとした顔で振り返った。
「外で?」
「ああ。もっと響きのいい、広い場所を探すんだ。あんたの音は、こんな狭い部屋に閉じ込めておくには、少しだけ惜しい」
本当は、ただ、こいつを息抜きさせてやりたいだけだった。バイトと練習、そして試験勉強。張り詰めっぱなしの彼女の心を、少しでも解放してやりたかった。そんなことを、素直に口にできるほど、俺は器用じゃない。
俺の言葉の真意を、詩は分かったのか、分からないのか。
彼女は数秒間、ぱちぱりと瞬きを繰り返した後、顔を真っ赤にして、花が咲くように、はにかんだ。
「……うんっ!」
週末、俺たちは駅の改札前で待ち合わせた。
私服姿の彼女を見るのは、初めてだった。白いワンピースが、いつもより少し大人びて見える。俺の顔を見た彼女も、同じように少しだけ頬を染めて、俯いた。ぎこちない沈黙が、なんだかむず痒い。
「……行くぞ」
「うん!」
俺たちが最初に向かったのは、楽器博物館だった。
「練習場所を探す前の、楽器の勉強だ」という、我ながら苦しい言い訳をつけて。
世界中の様々な楽器が並ぶ館内を、詩は子供のようにはしゃぎながら見て回った。俺はそんな彼女の一歩後ろを、少しだけ距離を置いて歩く。
ふと、一台の古いグランドピアノの前で、俺は足を止めた。黒く、艶のある、美しいフォルム。自分がどんな音を奏でていたのか、もう思い出せない。だが、その鍵盤に触れれば、今も何かを思い出せるような、そんな気がした。
「……佐久間くん?」
俺の横顔を、詩が不思議そうに覗き込む。
「なんでもない」
俺はそう言って、再び歩き出した。
博物館を出て、アクトシティの広場を抜ける。吹き抜ける風が心地いい。
「なあ、もっと、音が遠くまで響く場所に行ってみないか?」
俺の提案に、詩はこくりと頷いた。
バスに揺られてたどり着いたのは、湖に面した、広い海浜公園だった。潮の香りと、どこまでも続く青。俺は、ここならいいと思った。
詩は、まるで許しを得るように俺の顔を見ると、ケースからフルートを取り出した。
彼女が奏でたのは、コンクールの課題曲でも、練習曲でもない。俺たちの間にだけ存在する、あのメロディだった。
潮風に乗ったその音色は、化学準備室で聴くよりもずっと伸びやかで、自由で、そして、楽しそうに響いていた。
俺は、目を閉じてその音色を聴きながら、この時間が、この日常が、永遠に続けばいい、なんて、らしくないことを考えていた。
こいつの音は、俺が守る。誰にも、値段なんてつけさせない。
その決意を、改めて胸に刻んだ。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
夕暮れの駅前。雑踏の中、俺たちは少しだけ名残惜しい空気を感じながら、互いに向き合った。
「じゃあ、また月曜に」
「うん。今日は……その、ありがとう。すっごく、楽しかった」
彼女が、最高の笑顔を見せた、その時だった。
「やあ、舘山寺さん。それに……君は確か、佐久間くん、だったかな」
人混みの中から、ぬるり、と現れたその男の声に、俺たちの周りの空気だけが、一瞬で凍りついた。
柔和な笑みを浮かべているが、目の奥は全く笑っていない。見覚えのある、胡散臭い優男。
詩が才能をレンタルしていた、あの悪質な記憶ディーラーだった。
詩の顔から、一瞬で血の気が引くのが分かった。彼女は、恐怖でその場に凍りついている。
俺は、咄嗟に一歩前へ出て、詩の前に立つ。彼女を庇うように、目の前の男を、鋭く睨みつけた。
楽しかった一日の終わりが、最悪のノイズによって、上書きされようとしていた。
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