第10話:幸福の対価と、共鳴する痛み

 楽しかった時間は、光の粒になって夕暮れの空気に溶けていく。

 駅前のコンコースは、家路を急ぐ人々の喧騒と、様々な生活の匂いで満ちていた。

 俺と舘山寺は、その流れの中で、互いに向き合い、別れの言葉を探していた。名残惜しい、という陳腐な感情が、確かに俺たちの間に存在していた。


「じゃあ、また月曜に」


 俺がそう言うと、詩は「うん」と頷いた。


「今日は……その、ありがとう。すっごく、楽しかった」


 彼女が、今日一日で一番の、満開の笑顔を見せた、その時だった。



「やあ、舘山寺さん。それに……君は確か、佐久間くん、だったかな」


 その声は、雑踏のノイズの中から、まるで俺たちの耳だけを選んで届いたようだった。

 ぬるり、と。音もなく、人混みの中から一人の男が姿を現す。


 柔和な笑み。上品に着こなしたトレンチコート。しかし、その目の奥には、獲物を前にした爬虫類のような、冷たい光が宿っていた。

 詩が才能をレンタルしていた、悪質な記憶ディーラー。


 時間が、凍った。

 詩の顔から、さっきまでの幸福な血の気が、まるでデータが消去されるように、一瞬で失せていく。彼女の瞳が見開かれ、呼吸が止まる。過去の悪夢が、鮮明な映像となって彼女の脳内で再生されているのが、隣にいる俺にまで伝わってくるようだった。金縛りにあったように、彼女の体は硬直し、動かない。


 俺は、条件反射で一歩前へ出て、詩の前に立ちはだかった。自分の背中に、彼女の小さな体の震えが、服越しに伝わってくる。怒り。純粋な、焼けるような怒りが、俺の腹の底から湧き上がってきた。

 俺は、震える彼女の腕をそっと引き寄せ、完全に自分の背後へと隠した。


相沢あいざわ……!」


 俺は、以前調べ上げたディーラーの名前を、低い声で吐き捨てた。


「何の用だ。こいつに二度と近づくなと、俺は言ったはずだ」


 相沢と呼ばれた男は、肩をすくめてみせる。その仕草すら、計算され尽くした芝居のようだった。


「そんなに警戒しないでくれたまえ。少し、君たちのあまりに楽しそうな様子が見えたものだからね。ご挨拶を、と思って立ち寄っただけだよ。……素晴らしい一日だったようだ。まるで、これから高値で売却される予定の、最高品質の『幸福な記憶』みたいだ」


 その言葉は、俺たちの一日を、ずっと監視していたという事実を、雄弁に物語っていた。


「対価なら、俺が払う。こいつの契約は、全て俺が引き継いだ。今後は、俺を通せ」


 俺は、改めて宣言する。詩が、俺の背中で、シャツの裾を強く握りしめるのを感じた。


「ほう、君が? それは面白い」


 相沢は、心底楽しそうに目を細めた。


「だが、君に払えるのかな? 彼女が本当に望む『幸福』の対価を。例えば……遠方で一人、病と闘うお母様の容態が、劇的に改善するという『奇跡の記憶』。あるいは、どんなコンクールでも優勝できる、『絶対的な才能の記憶』。その値段を」


 その言葉は、慈悲深い提案の仮面を被った、最も残酷な揺さぶりだった。詩の呼吸が、ひゅっ、と浅くなる。


「貴様……っ!」


 俺が踏み込もうとした、その瞬間だった。

 相沢の目が、すっと俺を捉える。そして、俺は理解した。こいつの狙いは、最初から詩じゃない。俺だ。


「君は、面白いね、佐久間くん。君の記憶は、実に興味深い」


 その言葉と同時に、俺の世界が、ぐにゃりと歪んだ。

 駅の喧騒が遠ざかり、目の前に、あり得ない光景がフラッシュバックする。


 ――暗い、広いホール。鳴り止まない、割れんばかりの拍手。スポットライトの眩暈。そして、知らないはずなのに、知っている、グランドピアノの黒い鍵盤。指が、動かない。音が、出ない。頭の中で、誰かの甲高い悲鳴が響き渡る。

 やめてくれ。思い出したくない。

 これは、俺の記憶じゃない。俺が、捨てたはずの――…


「ぐ……っ、ぁ……!」


 激しい頭痛と吐き気が、俺の体を襲う。立っていられない。膝が、折れそうだ。

 これが、記憶への不正アクセス。やはり、良いものではないな…!


 その時だった。


「やめてっ!」


 か細い、しかし、芯の通った声が、俺の悪夢を切り裂いた。詩の声だ。


「佐久間くんに、何をするの!」


 彼女は、俺の後ろから飛び出し、震えながらも、相沢と俺の間に立ちはだかった。その小さな背中が、俺を守ろうとしていた。


 その瞬間、二つの異なる電流が、俺の体内で衝突した。

 相沢が見せる、冷たくて暗い、絶望の記憶。

 そして、詩から流れ込んでくる、温かくて、眩しい、光の記憶。



 ――屋上で食べた、少しだけ甘い卵焼きの味

 ――潮風の中で聴いた、どこまでも自由なフルートの音色

 ――『大丈夫!』と、俺の手を引いてくれた、彼女の小さな手の感触



 詩の記憶が、俺の記憶が、混ざり合い、共鳴する。

 彼女の温かい光が、俺の中の暗い悪夢を、浄化していく。頭痛が、嘘のように引いていった。

 同時に、詩の肩が小さく震える。俺の痛みと孤独の断片が、彼女にも流れ込んでしまったのだ。


 俺は、我に返った。そして、自分を守るように立つ、その小さな背中を、力強く引き寄せた。


「……もういい、舘山寺」


 俺は、鋭い眼光で、目の前の悪魔を睨み返す。


「……お前、俺に何を見せた」


 相沢は、俺たちの間に起こった不思議な現象を、正確に観測していた。彼は、驚くでもなく、ただ、研究者が未知の生物を見るような、愉悦に満ちた目で微笑んだ。


「これは……これは、素晴らしい! 『記憶の共鳴』、か。なるほど、実に興味深いサンプルだ。君たちは、やはり、ただの人間じゃないらしい」


 彼は満足そうに頷くと、芝居がかった仕草で一礼した。


「いいだろう、今日のところは引き下がろう。この素晴らしい発見に免じてね。だが、覚えておくといい、佐久間くん。本当の幸福には、本当の絶望という対価が必要なものだよ」


 相沢は、謎めいた言葉を残すと、嘘のように、雑踏の中へと姿を消した。

 後に残されたのは、俺と、俺の腕の中で小さく震える詩だけだった。


 緊張の糸が切れたのか、彼女の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。俺は、それを力強く抱きとめた。


「……佐久間くん、……今、私……あなたの心が……」


「……ああ。俺もだ。お前の心が、見えた」


 何が起きたのか、完全には理解できない。だが、確かなことが一つだけあった。

 俺たちは、言葉もなくして、互いの魂の、一番柔らかい場所に触れたのだ。


 俺は、詩の手を、強く、強く握りしめた。


「……帰るぞ」


 その手は、もう二度と離さないと誓うように、固く、固く、結ばれていた。

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