第8話:自習時間

「あいつのことは、俺がなんとかする」


 詩にそう約束したものの、俺の足はすぐに二年四組の教室へとは向かわなかった。


 引佐夏帆。あいつは一体、何がしたいんだ?

 昼間に見せた、詩を心配するような素振り。その言葉に嘘はないように思えた。

 だが、あの完璧な笑顔の裏には、俺にはまだ読み取れない、別の感情が隠れている気がしてならなかった。

 迂闊に動けば、詩をさらに追い詰めることになるかもしれない。


(……まずは、敵情視察、か)


 俺は、詩を家に帰らせた後、一人、彼女の教室へと向かった。

 放課後のざわめきが静まった二年四組の教室。その中を覗くと、予想通り、引佐夏帆の姿があった。

 彼女は、自分の席ではなく、教卓の前に立ち、数人のクラスメイトを相手に中間試験の勉強会を開いていた。


「この問題のポイントは、公式をそのまま当てはめるんじゃなくて、まずこの部分を因数分解することよ」


「英単語は、ただ暗記するより、語源をセットで覚えた方が効率的。例えば――」


 彼女の説明は、淀みなく、的確で、まるで予備校のカリスマ講師のようだった。周りの生徒たちも、全幅の信頼を寄せた眼差しで彼女を見つめている。


 完璧だ。あまりにも、完璧すぎる。


 俺は、直接声をかけるタイミングではないと判断し、廊下の壁に寄りかかって、彼女が一人になるのを待つことにした。



 長い時間が過ぎたように感じた。勉強会が終わり、生徒たちが「ありがとう、委員長!」「助かったよ!」と口々に言いながら、教室から出ていく。一人、また一人と姿が消え、やがて、広い教室に彼女だけが残された。


 俺が再び教室を覗くと、信じられない光景が目に飛び込んできた。

 引佐夏帆が、教卓に突っ伏していたのだ。


 さっきまでの完璧な委員長の姿はどこにもない。ただ、全てのエネルギーを使い果たしたように、ぐったりと机に身を預けている。

 そして、彼女は、おもむろにカバンから小さな巾着袋を取り出した。中から出てきたのは、少し色褪せた、古いお守り。

 彼女はそれを、まるで祈るように、両手でぎゅっと握りしめた。

 何かを堪えるように俯いたその横顔は、俺が今まで見たことのないほど、脆く、寂しげだった。


 ――あれが、本当の引佐夏帆なのか?


 俺は、その姿に声をかけることができなかった。

 完璧な鎧の下で、彼女もまた、何かと必死に戦っている。詩とは違う種類の重圧と孤独に、たった一人で耐えている。それを、直感的に理解してしまったから。

 あいつを『敵』だとか『ノイズ』だとか決めつけていた自分が、ひどく浅はかに思えた。


 俺は、音を立てないように、その場を静かに立ち去った。

 委員長の問題に、今の俺が踏み込むべきではない。踏み込めるはずもなかった。


 俺がやるべきことは、一つだけだ。




 翌日。俺は、化学準備室で待っていた詩に、いつもより少しだけ優しい声で言った。


「続き、やるぞ」


 委員長とのことは、何も話さなかった。話す必要がなかった。


「うん!」と頷く詩の顔には、もう迷いはなかった。

 俺の覚悟が、言葉にしなくても、彼女に伝わったのかもしれない。

 俺たちは、ただ、目の前にある問題に向き合う。


 コンクールまでの残り少ない時間が、また静かに、しかし確かに、流れ始めた。

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