第7話:嫉妬という名のバグ

 あの日、俺と舘山寺は、奇妙な『共犯者』になった。

 それから一週間。放課後の化学準備室での秘密の練習は、俺たちの『日課』になっていた。


 最初はぎこちなく、互いの出方を窺うようだった距離も、音楽という共通言語の前では無力だ。

 俺が記憶の残滓から引きずり出した拙いピアノの旋律に、彼女が澄んだフルートの音色を重ねる。そのセッションは、言葉を交わすよりもずっと雄弁に、俺たちの心の壁を溶かしていった。


 あいつと過ごす時間は、忘れていた何かを思い出させるようで、心地よく、そして少しだけ怖かった。



 その変化は、昼休みの風景にも現れていた。

 屋上のフェンスに寄りかかり、自販機で買ったアナゴコーラを飲んでいると、彼女が弁当箱を手にやってくる。これも、いつの間にか当たり前になった光景だ。


「佐久間くん、はいっ!」


 詩はそう言うと、自分の弁当箱から、綺麗に焼かれた卵焼きを一つ、箸でつまんで俺の目の前に差し出した。


「……いらねえ」


「だーめ。これは、いつも練習に付き合ってくれるお礼なんだから」


「……礼を言われる筋合いはない。投資家としての当然の……」


「いいから、早く。腕が疲れちゃうよ」


 彼女の真っ直ぐな瞳に、俺のくだらない屁理屈はあっけなく撃ち落とされる。観念して口を開けると、その中に、ほんのり甘い卵焼きが優しく置かれた。


「……別に、うまくも不味くもねえな」


「ふふっ、素直じゃないんだから」


 くすくすと笑う彼女の顔を、照れ臭くて直視できない。

 この一週間で、俺の防御壁は、彼女の前でだけ、ザル同然になっていた。



 そんな穏やかな時間が、ずっと続けばいいと、柄にもなく思い始めた、その時だった。

 屋上から教室に戻る階段の踊り場で、俺たちはクラス委員長の引佐いなさ夏帆かほと鉢合わせした。


「あら、佐久間くん、舘山寺さん。お昼休みはいつも一緒なのね。仲が良くて、見ていて微笑ましいわ」


 夏帆は、完璧な笑顔を俺たちに向ける。だが、その言葉には、値踏みするような冷たさが含まれていた。

 詩が、びくりと肩を震わせ、俺の後ろに隠れるように一歩下がる。

 俺は夏帆を無視して通り過ぎようとした。だが、彼女は俺にだけ聞こえるような声で、囁いた。


「舘山寺さんを困らせないでね。彼女は、あなたが思っているよりずっと繊細なのだから。このクラスの和を乱すような真似は、見過ごせないわ」


 その声は、優等生としての善意の仮面を被った、明確な警告だった。



 ◇



 放課後の化学準備室。

 詩の奏でるフルートの音は、明らかに精彩を欠いていた。昼間の夏帆との一件が、彼女の心に小さな影を落としているのは明白だ。


「どうした?集中できてないぞ。何かノイズでも拾ったか?」


 俺の問いに、詩は「ううん、何でもない!」と力無く首を横に振る。その顔には、いつもの明るさがない。

 やがて、彼女はポツリと、自分に言い聞かせるように呟いた。


「私なんかが……佐久間くんの時間、独り占めしちゃって、いいのかな……って、ちょっと思っちゃって」


 その言葉に、俺の中で何かがカチリと音を立てた。

 原因は、委員長。引佐夏帆だ。あの女の余計な一言が、ようやく安定しかけていたこいつのシステムに、バグを発生させた。


 俺はため息を一つつき、練習を切り上げた。


「バーカ。あんたが気にすることじゃない」


 俺は楽譜をまとめながら、立ち上がる。


「少し、野暮用だ。今日の練習は終わり」


「え、佐久間くん?どこ行くの?」


 俺は、不安そうな顔で見上げてくる詩の頭に、ぽん、と軽く手を置いた。


「言ったろ。俺はあんたのスポンサーだ。あんたの演奏に影響が出るノイズがあるなら、それを取り除くのも、俺の仕事だ」


 俺は化学準備室を出て、まだ生徒が残る教室棟へと、真っ直ぐに向かった。


 引佐夏帆のいる、二年四組の教室へ。

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