第五章:幸福な偽名たちへ

 「ヴィランでいい」


 レンがそう口にしてから、いくつかの夜が過ぎた。

 変わらない街の灯、変わらない雑音。でも、レンの中で何かが静かに動き始めていた。


 仮面はまだ必要だった。

 社会の中で、職場で、家族の前で、道行く他人の視線の中で。

 それでも、せめて自分の中では、自分に嘘をつかずにいたい。

 そう思えたことが、今は何よりの救いだった。


 イオリとの関係は、奇妙なバランスのまま続いていた。

 恋人ではなかった。友人とも、少し違った。

 お互いの皮膚の下に潜む「誰にも知られたくないもの」に触れたことで、すでに言葉や役割では形容できない場所に立っていた。


 それが心地よくもあり、時々、怖くもあった。


 


 その日、イオリは珍しく電話をかけてきた。

 仕事の帰り、レンが電車に揺られていたときだった。


「ごめん、ちょっとだけ、時間ある?」


 イオリの声は落ち着いていたが、何かを押し隠している気配があった。

 レンはそのまま終点まで乗り過ごし、指定されたカフェに向かった。


 


 店内は空いていた。午後10時近く。

 イオリは、窓際の席に座っていた。

 シャツの襟元が少しだけ開き、ネクタイは外されていた。

 その姿はどこか無防備で、同時に、いつもより少し“人間らしい”ように見えた。


「急にごめん。……今日さ、取引先で、名前を呼ばれたとき……変な気持ちになったんだ」


 イオリはグラスの中の氷を指で回しながら話し始めた。


「“結城さん”って、呼ばれた瞬間、自分のことじゃない気がして。……いや、違うな。自分に“戻された”感じ、って言ったほうが近いかも」


 レンは黙って聞いていた。


「そのあと、会社の同僚に“彼女いるの?”って訊かれてさ。『いないです』って答えた。でも、本当は“君がいる”って言いたかった」


 イオリは目を伏せ、短く笑った。


「でもそれを言ったら、全部壊れるってわかってた。君まで巻き込むってわかってた」


「……言わないでよかったよ」


 レンはそう返した。

 穏やかな口調だったが、そこには確かな決意があった。


「俺も、まだ“レン”で生きていく準備ができてるわけじゃない。男のフリも女のフリも、まだ手放せない。今は、それでいい。そういうことにしよう」


 イオリはしばらく黙っていた。

 その沈黙が、あまりにも深くて、レンはそっと問いかけた。


「……ねえ。君、ちゃんと生きてる?」


 イオリは、小さく息を吐いた。


「わかんない。でも、君といるときだけは、死にたいって思わない」


 それは、愛の言葉ではなかった。

 だけど、それ以上に正確で誠実な言葉だった。


 


 帰り道、二人は並んで歩いた。

 雨は降っていなかったが、レンの指先は少し震えていた。


「ねえ……俺、君のこと、好きなのかな」


 ぽつりと、レンが呟いた。

 イオリは歩を止めた。


「“好き”って、どんな形の感情なんだろうな。恋愛? 信頼? 依存?」


「……全部?」


「全部かもな。でも、ひとつだけ確かなのは、“君じゃなきゃだめだ”って思う瞬間があること」


 レンは、何も言えなかった。

 その言葉があまりにも真っ直ぐで、どこにも逃げ道がなかった。


 ただ一つ、今言えることがあった。


「じゃあ……その“だめだ”を、お互いの中に置いとこうか。名前も関係も、ぜんぶ曖昧でも。そこに確かに“ある”ってだけで、いいじゃん」


 イオリはうなずいた。


「それが、俺たちの幸せかもな」


 幸福は、はっきりとした名前を持たない。

 仮面のまま触れあう手も、愛だった。

 嘘の中でだけ生き残れる者たちが、互いの“偽名”を赦しあうことでしか生まれない関係も、確かに存在した。


 レンは、イオリの手を取った。

 それが、初めての接触だった。


 この手は、誰かを拒むためのものではない。

 誰かを否定され続けてきた、自分たち自身を抱きしめるためのものだった。


 


 夜の街を歩く“ヴィラン”たちは、今日も静かに生きていた。

 声を上げずに、仮面をつけて、それでもなお、名前のない幸せを求めて。

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